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▲ナイロビ(ケニア)から一番近い国立自然公園で、マサイキリン |
1999年2月26日
白い天井と壁、その一角に、ちょっと大きめの白い日本製エアコンが音をたてている。半ズボンからはみ出た少し毛深い足と、いかにも履き慣れた感じのサンダルが、僕の頭の周りを動いていた。
タンザニアのダルエスサラームに着いてからは毎日時間をみつけて、日本大使館内の医務室で点滴を受けた。いつももう一人連れがいて、彼が一台しかないベッドを使っているので、僕は床に横になり、自分のジョギングシューズを枕に静かな時間を過ごす。目を開けると高く白い天井があり、忙しく立ち働く九州男児K医師の足元が見えた。
エジプトで公演旅行は折り返し、後半に突入しているが、このタンザニアに着いた日、そして着いてから後、僕たちの一番の話題は「マラリア」だった。
ナイロビの専門医から戴いたマラリア予防薬「ドキシサイクリン」は、大粒で妖しい緑色に輝いている。これを毎日一錠タンザニアに入国した日から飲み始め、潜伏期間があるので日本に帰国後も一ヶ月は飲み続けるよう指示され、何度も念を押されていた。
良い予防薬を飲んでいると、感染しても発病しなかったり、発病しても軽く済むという。もちろん長期滞在している人は飲まない。この薬が強い抗生剤だからだ。それに飲んでいなくても発病した時点で早期治療を行えば、恐れるような病気ではなく、現地では麻疹みたいな感じで受け止められている。ただし、マラリアは一度感染しても終わりではなく、何度でもなる人はなる。日本人に会えばついこの事を尋ねてしまう。
五年間滞在しても一度もならなかった人もいれば、到着早々感染してしまう人がいて、症状も「風邪と同じ」と言う人から「このまま死んでしまうのか」と思ったほど苦しむ人がいて様々、そして厄介なのが日本で発病した場合のことだ。
情報が増えれば増えるほど憂鬱な気分になるのが分かっていても、ついまた尋ねるのがタンザニアでの挨拶のようになっていた。
僕の胃腸はここに来て旅の疲れが、どっと吹き出たのだろう。この予防薬に実に敏感に作用してしまい、腹痛と下痢がこの後帰国まで続いたのだ。以前は半年間海外ツアーに出っぱなしのことがあっても、こんな体験はなかったのに、今回は一ヶ月でこの有り様だ。恥ずかしいことではあるが、自分の実肉体力を認識するよい機会であったと思う。
一ヶ月の間に、初冬の日本から厳冬のフランスへ飛び、初夏のケニア、陽春のエジプト、盛夏のタンザニア、晩春のザンビアへと巡った。それぞれ五日間ほどの滞在で、なぜか途中に冬将軍のスイスにも道草して一泊、これを約二トンの太鼓道具類と約三百キロの個人の荷物を持って、男十三人が飛行機で国々を移動した。そして帰国の途には36時間、三日をかけ成田に到着した。
この間に十一回の本公演(この内五本は現地グループとジョイントもし)、一小公演、二ワークショップ、一病院慰問公演、一特別出演もした。楽な旅だとは言えまい。パリ公演最終日、打ち上げ夕食をセーヌ河に浮かべた船上レストラン・マキシムでとっていた時、そのレストランのオーナーでもあるピエール=カルダンさんと秘書の高田美(よし)さんが運良くその店に食事に現れた。僕たちが日本から来た太鼓チームだと知ると非常に興味を持ち、どういうチームなのかと尋ねられた。
「日本の太鼓をパリに初めて紹介したのは自分だと今も誇りに思っている」「パリ公演成功おめでとう。アフリカは大変だから体に気をつけてね」などと力強いお言葉を頂いた。
確か僕が佐渡國鬼太鼓座に入ってすぐ、ちょうど島で留守番をしている時期に、座はカルダンさんのプロデュースで欧米ツアーを行ったと思う。僕はその伝説のカルダンさんには直接お会いしたことがなく、こんなところで初めてお目に掛かるとは不思議な縁だ。平沼共々感慨深く、喜んだ。
大太鼓をフンドシ姿で叩くアイデアを、強力に支持したのがカルダンさんだったし、欧米社会にセンセーショナルに和太鼓が紹介されたのもカルダンさんの力に寄るところが大きかったのではないだろうか。それから二十余年、今こうして東京打撃団という名前の太鼓グループがここに存在して、パリに来ていることも、それに無縁ではない。カルダンさんは、いったい何歳になられたのだろう、今も非常にお元気そうだった。
▲カイロの街角で散髪する。カットだけだが一時間かかった。日本円で約六百円
さて、この旅で足を踏み入れた国々を数に加えると、僕が公演旅行で訪れた国の数は30ヶ国になる。それぞれの国での反響はどうかと、たずねられても一概には答えにくい。それも今回のように短い滞在ではよけいにだ。
実際「アフリカ」と一言でいっても50ヶ国近くあり、その内の僕は四ヶ国の体験しかない。エジプトを別として、まず驚いたことには、これらの国にはまともな劇場がないことだった(不服ではないんですよ、実状を知っただけ)。
ケニア、タンザニア、ザンビアと、それぞれの国で一番条件のよいホールを探してもらってそこで公演したが、地元日本大使館、日本人会などたくさんの人々の涙ぐましい努力と協力があってやっと舞台が使えるようになった場所で、自慢できたホールでは決してない。でも言葉を変えると、「こういう国に劇場があるだけで自慢できる」状態なのかもしれない。
▲キベラ(ケニア)世界人権宣言50周年記念コンサート本番前のデモンストレーション
仕事がなくて、お金がなくて、食べる物がなくて、どうやってその日を生きて行こうかと考えて今日明日を過ごしている人々が国の大半を占めている。と聞けば、劇場を建てるよりも先にやらなければならないことが山積みなのだろうと、僕にも推測できる。そして、今日食べる物問題の前ではエイズ問題も二の次になってしまう訳だ。
タンザニア、ザンビアではエイズ感染者が推定で三割か四割、五割を越えている地区もあるという。二十代、三十代がバタバタ亡くなるので平均年齢が四七歳。それでも子供はどんどん生まれるので人口は増えているらしい。ほんとにもう「花も嵐も踏み越えて〜」という感じで、たくましい者しか生き残れない社会なのではないだろうか。
エイズはまだ身近な問題でなく、平均年齢が八十歳で、それでも子供は産まれない日本からこれらの国を見れば、絶対に異常だ(どっちの国が?)。
ところが、みんなの顔を見るとそんなに暗くない。どちらかというと明るい。悲観しているヒマがないんだろう。だから音楽が好きなんだろうか?
タンザニアでは、「太鼓名人はもてる」という話を聞いた。太鼓がうまいと人望を集め、人々から尊敬もされ、村では村長になったりもする。嫁さんもたくさんもらえる。また女性も踊りがうまければ、有力者の嫁さんになって楽に暮らせる、という。
そう言えばバガモヨ(ダルエスサラームから車で約二時間の町)郊外の村で見た、芸能一家・ザウセファミリーの出演者約30人もすべてがザウセさんの嫁さんたち子どもたち或いは孫たちで構成されていた。芸は身を助ける(?)とはこのことだ。
もう一つ太鼓名人村長説を裏付ける証拠を目撃した。東京のザンビア大使公邸に招待された時、食事の後ショータイムがあった。そこで唄と太鼓と踊りが披露されたが、そのショーのクライマックスはホストである大使が踊り手に誘われて踊ることだった。この踊りが上手い!ザンビアでは太鼓も踊りも大使資格試験の一科目にあげられているのではないか、と思ったほどだ。踊りの踊れない人間に、交流の何ができるか?と鋭いメッセージを放っている(日本の外務省も国家公務員試験に「阿波踊り」と「秩父屋台囃子」を加えて欲しい)。大使が踊れば周りも踊らざるを得ず、最後は全員で踊ってお開きとなった。
きっとザンビアでは悲観するヒマはなく、希望を踊るに違いない。
健康保険も年金もなく、病気になったら死ぬ。食べ物なくなったら死ぬ。生きているうちは楽しもう。嫁さんは何人いてもかまわない。子供くらいたくさんつくっておこう、半分くらい死んじゃうから、とこうなる。これが自然。こんな社会は異常でしょうか?
僕たちの公演に来れる人たちというのは、やはり社会で言えば上流階級の人たちであったかもしれないが、日本の生の音楽文化に触れることはほとんどないことなので、太鼓のドカン!という一発を体で浴びてしまうと一気に身を乗り出してきて「日本人ってこんなこともするんだ(トヨタとソニーと土建屋と役人だけじゃないんだ)」と驚いているのがよくわかった。こうなると最後までノリが非常に良かった。お客さんの拍手や喜びの声は、僕たちの疲れが吹き飛ぶ瞬間であり、僕も太鼓を叩いている間はなぜか腹痛が治まっていたから不思議だ。年が明けて一月一四・一五日、ザンビアでジョイントした『ナショナル・ダンス・トゥループ(今回は特別編成で男女七人の内、三人は「ズバニモト」グループの所属)』が、今度は東京での打撃団コンサートに出演することになり来日した。
▲来日したザンビア・ナショナル・ダンス・トゥループのメンバー
こんな事を今頃話すのもなんだが、彼らの来日についてはとても心配していた。だってザンビアで初めて彼らの演奏と踊りを見た時、あまりの衝撃(覇気)のなさに少々ガッカリしたからだ。ザンビアに来る前にタンザニアでジョイントした『タツナネ』という男性五人組グループが強力にお客さんにもアピールし、演奏も声も大迫力が有りすぎたのかもしれない。
とにかくザンビアで僕たちの前に現れたチームは、少し元気がなく思えた。最後の公演が終わった後も、「来日の前にぜひ構成を直して稽古してきて欲しい」と頼んで別れた。そして東京で再会した時に、驚いた。
彼らは何がそうさせたのか、ずいぶん変わっているように感じた。迎えた公演本番の初日、僕は彼らの素晴らしさをやっと実感することができた。
アフリカでは際立たなかった、彼らの自然体の姿勢が、日本の舞台の上ではとても新鮮だったのだ。「太鼓を叩いて、踊ってます」それだけ。それ以上の何の欲も感じさせないところがスゴイ。無欲の芸と言えるかどうか?「何かこうしなくっちゃいけない」というのがないのだ。僕ら東京打撃団は日本の多くの太鼓グループの中ではそれが少ないほうだと思うが、それでもまだどうしても形にはまってしまう所がある。もっともっとのびのび舞台を楽しみたい。彼らと共演しているとそういう内なる声が聞こえてきそうだった。帰国して一ヶ月以上が過ぎた。
結局、マラリアには感染しなかったようだ。アフリカを離れる前、ザンビアの日本大使公邸で開かれた歓送パーティーの席で、私は招待されていることもわきまえずについ「もう二度とここに来ることはないだろう」などと口走ってしまった。深く反省しているがしかし、それほど当時僕の受けていたダメージは大きかった。心底、「よくこんなところで暮らせるな」と思っていたくらいだ。
だが、今あのアフリカでお会いした人々の顔を改めて思い浮かべてみると、なんだかみんな輝いている。
何年か振りに訪れた日本の使節団を本当に心待ちにし、準備をしていただいた。国際交流基金、日本大使館、そして日本人会などの人々に篤く感謝したい。これら皆さんの協力がなければ何一つ出来なかったはずだ。
また、単にすれ違った程度にしかお会いしていないのだが、海外青年協力隊員はじめボランティア組織など援助団体で働く人々の顔が、妙に僕の脳裏を離れない。
東京で電車に揺られ閉塞した社会の雰囲気を感じたり、冬のぽっかりとした青空を見上げている時に何となく思い出す彼らの顔は、なんだかみんなイイ顔をしている。
マラリア予防薬を飲まなくても過ごせるアフリカには、またぜひ行ってみたい。
▲前ペルー大使の青木大使がケニア大使になっていらっしゃった!そしてカウントバッファローズの石川晶さんも今はナイロビにお住まいだった!ケニア大使公邸での歓迎会でお会いでき、とても嬉しい夜でした |
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▲ルサカ公演一日目が終わって野外でワークショップ |
▲ダルエスサラームのホール。公演当日は花や万国旗、紅白幕などが美しく飾られた |
▲ケニアはこのトラックで荷物は移動。24時間警備員が守る |
▲道具大箱一つと三尺平胴太鼓がダルエスサラームに到着せず行方不明になる。慌てて太鼓台類、各自が使用するバチ等をすべて現地材で作る。荷物が合流したのはルサカ。クリスマスイブだった |
▲東京打撃団特別編成七人組+代表(パリ日本文化会館 楽屋通路で)右から 平沼、村山、ヒダノ、佐藤、富田、林田、橋本、熊谷 |
東京打撃団 1998.12 スケジュール
●12月1日飛行機移動 成田→パリ
●2日仕込み リハーサル
●3.4.5日 パリ公演(フランス)パリ日本文化会館ホール
●6日飛行機移動 パリ→ナイロビ
●7日仕込み リハーサル
●8.9日 ナイロビ公演(ケニア)ナショナル シアター
●10日 キベラ小公演(ケニア)キベラ競技場野外スタンド
●11日飛行機移動 ナイロビ→カイロ 搬入+日本人会忘年会特別出演
●12日ワークショップ、午後休み
●13日現地グループとジョイント打ち合わせ
●14.15日 カイロ公演(エジプト)カイロ オペラ ハウス小劇場
●16.17日飛行機移動 カイロ→チューリッヒ→ナイロビ→ダルエスサラーム
●18日現地グループとジョイント打ち合わせ+仕込み
●19日車移動 ダルエスサラーム→バガモヨ バガモヨ公演(タンザニア)バガモヨ芸術大学野外劇場
●20日車移動 バガモヨ→ダルエスサラーム ダルエスサラーム公演(タンザニア)ゴールデン ジュビリー ホール
●21日飛行機移動 ダルエスサラーム→ナイロビ→ルサカ
●22日現地グループとジョイント打ち合わせ+仕込み
●23.24日 ルサカ公演(ザンビア)ヒンドゥー ホール+ワークショップ(23日)+病院慰問ミニコンサート(24日)
●25日東京公演打ち合わせ、午後休み ●26日休み
●27.28.29日飛行機移動 ルサカ→ナイロビ→パリ→成田
《11本公演(内、5本は現地グループとジョイントもする)、1小公演、2ワークショップ、1慰問公演、1特別出演》
上演演目(○印は日替わり) ○サボ天 |
■東京打撃団12月ツアーメンバー■ 富田 和明 ■東京打撃団12月ツアースタッフ■ //東京打撃団代表・プロデューサー 平沼 仁一/照明 福島 稔/舞台監督 藤井 孝浩/ツアーマネージャー 小田 総則/主催者 国際交流基金 The Japan Foundation(島田 靖也・酒向 巧) |
※このタイトルは特別記事ですので、長くなっていますが、普通はもっと短いです みなさまからのリクエストをお持ちしております Copyright 1999-2000 Tomida Kazuaki. All rights reserved.
『月刊・打組』オール・リクエスト・コーナー No.1
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