人間賛歌、熱き広場パリ!
東京打撃団「サッカーW杯フランス大会閉会式」出演
7月6〜13日
なにしろヨーロッパ大陸に渡るのが九年振り、パリが11年振り。
この九年間はひたすらアジアにいた。四年間が中国で、その後、日本を出れば台湾、香港、韓国、フィリピン。そして、太鼓の仕事で行った先が、モンゴルとインドネシア。
いくら欧米嫌いの僕でも、そろそろあの退屈な街並みと人々がどうなっているのか、気になりだした頃ではある。
現地時間の午後五時前、飛行機を降り、一歩、シャルル・ド・ゴール空港ロビーに足を踏み入れると「う、臭い」。気になったのはその一瞬だったが、香水の匂いが僕の鼻を襲った。
直行便なので成田から12時間弱で着く。
以前は南回りの途中乗り換え便ばかり乗っていたので、今回はあっけなく着いた感じだ。
一日早く到着していた平沼仁一やスタッフの出迎えを受けるが、空港で爆弾騒ぎがあり、迎えのバスがなかなか到着できない。時間があったので僕はトイレに入った。中に入ると男性小用便器が、僕の大事なところがやっと届くほどの高さでそびえている。
「これ以上足の短い人は入国お断り」
と便器が入国審査を行っているようで癪だったが、これを見て僕はフランスに着いたことを実感した。
一息付いて改めて空港内を見渡すと、そこは基本的には静かでのんびりとした空間が広がり、警備の人間はかなり目に付いたが、W杯決勝トーナメントの終盤をこれから迎えようとする慌ただしさはそこでは感じられなかった。
僕たち東京打撃団・出演者八人(今回は特別編成で三人臨時に加わってもらっている)とスタッフ十名ほどが乗るにはちょっと大きすぎるバスがようやく到着して、出発となる。
市内中心部のホテルに向かう途中、サッカーW杯決勝戦とその後の僕たちが出演する閉会式が行われる、サンドニ・フランス競技場も初めて見たが、宇宙船エンタープライズ号という一種未来SF風の趣がある巨大建造物だった。
短くホテルで休んだ後、さっそくその会場に向かう。八時半頃競技場入口に着くがそこから中に入れず、ぼんやりと時間を過ごした。
警備の関係上なのか、ただ単に段取りが悪いだけなのか、どういう連絡網なのかわからないが、何の理由か判らず、じっと待っていることがこの後も再三再四、頻繁に、重ね重ね登場する。
ここは日本ではなくフランスなのでゆっくり待つしかない。
この国は列車、トラック、郵便、ゴミ収集などが何カ月、ストでストップしてもじっと我慢している辛抱強い、またはあきらめの利く人々の国である。日本側のスタッフがいくら動いて確認してもどんどん予定が変わっていく。実はこの企画(閉会のセレモニーに次回開催国を代表して日本と韓国の太鼓チームが出演する)が今年になって急浮上してからというもの、ずっとこの国民性にスタッフ関係者は頭を悩ませてきたわけで、その上ここに韓国というまたとんでもなく強烈な国民性を持つ関係者が加わり、三者が三つ巴の回転寿司となっていつまでも話し合いがぐるぐると廻っていた。
日本出発の二週間前でもまだ最終決定が下されていなかったくらいだ。これだけ大きな世界規模のイベントで決定が遅れ、スタッフ関係者(日本サッカー協会、電通、東京打撃団事務所)は大変な気苦労だった。
そんなこれまでの苦労に比べれば、人間も太鼓も無事到着して会場の入口で何時間待とうとこれ位、笑顔でいられるというものだ。やっと中に入場して、いりくんだ長いトンネル通路を抜け、緑のまぶしいグランドに足を踏み入れる。
「ここでやるんだ」と少々興奮しながら時差ボケのフワフワした体で歩く。
先に到着していた韓国・国立舞踊団のリハーサルをスタンドで見、その後、演出助手から閉会式の進行説明を聞く。
「始めにフランス側だけの演技で2分、韓国1分、日本1分、合同で2分、全部で6分間。使うテープはこの音楽‥‥」僕たちは今やっとこのことを知らされた。
飛行機に乗り込む時点でも「パリには行くけれども、最悪、何もしないでワインだけ飲んで帰ってくる」と聞いていただけに、参加できる喜びが沸々と湧いてきた。音は諸々の事情によりテープを使うことになっていて、十日前に日本のスタジオで四種類の曲(『鼓郷スペシャル』作曲・ヒダノ修一)を録音していたが、その中からどれを使うのか分からなかったのが今判明した。
曲が決まれば後は演奏である。
最初の僕たちのリハーサルが始まったのが10時半過ぎで、夜の11時、やっと空が暗くなる。この日は問題提議をするだけに終わったが、一番の問題は競技場のスピーカーから聞こえる録音された音に合わせるには、その音のボリュームが小さすぎて自分が少しでも太鼓の皮にバチをあてると、まったく録音の音が聞こえなくなってしまい、太鼓を叩けないということだった。
通常ならばモニタースピーカーを近くに置いてそこから音を出してもらうか、イヤホンから音を聞くのだが、それができないという。このままではせっかく持ってきた太鼓を叩かずに、叩く振りだけを見せることになる。
午前0時までリハーサルは続き、ホテルに戻れば2時近かった。
日本時間の朝7時に我家を出発してから、長い7月6日がようやく終わった。
それから本番までのほぼ毎日、夕方になると競技場に出かけ、夜中までこの六分間のリハーサル(僕たちが太鼓を叩くのは正味三分間で、さらに僕たちだけの演奏は一分間)、というスケジュールが続く。
このリハーサルで牛歩並ではあるが、少しずつ状況が改善されていったのである。※日本から届いた大太鼓を会場でセッティングする
昼間観光する時間は充分あったけれど、僕はもうほとんどパリは前に歩いているので、あまりホテルから出なかった。
夏だというのにパリは思いがけず寒く、日本でいえば十月下旬の気候だ。円安で余分な出費はしたくなかったが、防寒のコートとズボンを買った。
11年前のパリは、何でも安く感じたのに、今は何でも高く感じる。
スーパーマーケットに入っても、安いのはワインとチーズくらいではないかと思ってしまう。フランス料理の本場だと言っても、美味い物は目玉が飛び出るほど高く、安くてもそこそこに美味い物が手軽に食べられる日本とは違う。
競技場でのスタッフ用レストランの食事も毎日頂いたが、
「どうやったらこんなまずい味付けになるのか」
質問したくなるような料理だった。そんなわけで、結局僕はホテルの部屋で11年前と同じく、ご飯を炊いてカレーを作り、味噌汁を飲んでいたのでした。
そんな合間をぬって観に行ったのが、北野武監督作品『HANA-BI』。
まだ上映している映画館がパリに一つあったのです。
※外見からは映画館だとはわかりづらい、パリ下町のミニシネマ
150席ほどのミニシネマだが、席はゆったりと贅沢に座れる。
見慣れたハズの日本の風景がここでは外国だ。土曜日昼の回で三分の一ほどの入りだった。見終わって外で僕が記念の写真を撮っていると、
「日本人?」
と、話しかけてくる女の子がいて、彼女はフランスで上映されたタケシの映画四本全部みて大ファンだという。
日本でのコメディアンとしての活躍やバイク事故の話などもよく知っていて、ヨーロッパのキタニストの存在も嘘ではないことを知る。
そしていよいよ閉会式本番、7月12日を迎えた。
最初に心配だったのはお天気。これまでリハーサルをしていても、曇り空か小雨混じりのお天気だったが、本番ではどうなるのか?
本番中に土砂降りになっても、閉会式は中止にはならない。
もちろんビニールシート掛けたまま太鼓を叩くわけにもいかない。そうすると太鼓の皮がその後使える状態ではなくなってしまう。もう一つの心配が火薬。
今回はグランドの上でもかなりの量の花火が使われると言うので、その火の粉も太鼓の皮には命取りだ。
演奏に使われる二台の大太鼓は浅野太鼓楽器店からの借り物で、この対策のために若社長・浅野恭央さんにも来て頂いている。
朝目覚めてみると、これまでパリでは見たこともないような快晴。
午後四時半にホテルに集合してスタジアムへ向かったが、いつもならバスで40〜50分で着くところが、続々と人々と車がスタジアムに連なっており、夕方六時を過ぎても、空の色は午後二時ライオン奥様劇場というような突き抜けた青さで、その下に青白赤の一群と緑黄の一群が大騒ぎをしながら列を作り歩いていた。
会場まで今日は二時間かかる。
※決勝戦当日、サンドニ・フランス競技場に詰めかけている人々
フランスのシラク大統領は、四日前の準決勝クロアチア戦にフランスチームが勝った時点ですでに、「フランス最良の日」宣言をしてしまった。
前回も前々回のW杯でも予選で敗退し、今回は開催国という事でかろうじて出場できたフランスが、まさか決勝戦にまで勝ち進むとは、国民の誰もが予想できなかったことだった。
だからその盛り上がり様も驚くばかりで、これがもし、優勝してしまったら、どうなるのか?
スタジアムに入場できた七万五千人、プラスその周辺に集まった人々、そして世界各地二百五十局のテレビを通して観戦するであろう30億(?)の人々のパワーがここに集結していると言ってよいだろう。
僕たち出演者が楽屋に入っていても、そこに設置されているテレビ画面に、大会スタッフ、閉会式出演者が群がり、試合開始のホイッスルで大歓声が上がる。
※楽屋で観戦する閉会式出演者たち。試合開始前から盛り上がる
※出番前、最後の説明を聞く韓国・国立舞踊団メンバー。総勢は30人ほど
フランス代表チームVSブラジル代表チーム、決勝戦。
午後九時キックオフ。
僕たちはサラシ腹掛けパッチに足袋という衣裳に、着替えを始めた。
開始早々にジダンの得点があり、すでにフランス優勝の雰囲気の中、前半終了。僕たちは閉会式の入場口へ、太鼓と共に移動した。
後半45分+ロスタイム3分が過ぎ、試合終了のホイッスルが鳴る。
日本サッカー協会の僕たちの担当者Mさんから度々聞かされていた、
「決勝戦終了のホイッスルは2002年大会開始のホイッスルだ」というその笛が響きわたり、スタンドも大興奮だけど、我々がスタンバイしていた裏でも激しい喚声が上がった。
「よ〜し!」と僕たちもすでに気合いが入ったが、それから閉会式が始まるまでの時間は、入場が今か今かと待つ身には長かった。
優勝のトロフィーの授与、写真撮影、優勝チームのウイニングラン。
なかなか終わりそうにない。この幸福な時間を一秒でも長く過ごしていたい気持ちはよくわかるが・・・・。
待ちに待って、閉会式の始まりを告げるファンファーレが聞こえた。
ブリキの打楽器サーカス団という感じの50人の集団を先頭に、僕たちもグランドに入場する。
僕は締め太鼓を持って歩きながら、ものすごい歓声と、どっからでもかかってこいというような地鳴りのようなボリュームの音楽を全身で浴び、「よっしゃー」と何度も叫んでいた。
これが最高に嬉しい瞬間だった。当日までいろいろあったが、始まってしまえば、嬉しさ以外になにもない。
花火の羽を背負った集団がそこに新たに登場し、火と煙が渦巻く。そして韓国国立舞踊団の演技の間に我々はグランド中央に進み、僕たちの一分間が始まり、終わる。
その後は桶太鼓に持ち替えて叩く。村山二朗はここで篠笛を吹いていた。
この合同のシーンのメインは炎の饗宴で、グランドでは防火服を着込んだ花火師が駆け回り、頭上では競技場屋上に仕掛けられた三千九百発の花火が一分半の間に打ち上げられた、はずだ。
そして最後に白と銀色の紙の花びら百万枚が上から舞い下りてきた。
何だか夢の中に立っているような気分だったが、いつの間にか終わっていた。
退場する時、電光掲示板には「JAPON 2002 COREE」の文字が見え、時計は11時46分を差していた。
※閉会式の最後上空より舞い下りた百万枚の紙吹雪。表が白地にブルーの文字、裏は銀色。中央下の手書き文字の意味は
「私はここにいる!」。来場したお客さんへの粋な贈り物
片づけを終えて午前一時過ぎ、外へ出たが、送迎バスが出口に入って来れずに二時半まで待つ。
競技場周辺はまだ人と車で埋まっている。
パリ市内へ戻る道路でも、車の窓から身を乗り出して踊ったり、屋根に上がったり、車を止めては騒ぐ一団がいたりと、そうとうににぎやか。
でもなぜかさわやかな感じで、日本でいう右翼宣伝カーや暴走族グループなどがいない。
ただもう嬉しい。
それだけが人々に満ち溢れている。
3時半頃ホテルに戻り隣のビルのカフェでビールを飲み、朝が近い4時半を過ぎてから、凱旋門のあるシャンゼリゼ通りに向かって歩いたが、もう人々は帰り支度の中だった。それでもまだ「フランス万歳」「俺たちがチャンピオンだ」と口々に叫び、興奮冷め止まない。
※7月13日午前4時、まだまだ喜びは静まらない。会う人皆友達になる。中央は林田博幸
ホテルに帰ると小粒の水滴が道路を濡らし始めた。
騒ぎ疲れ路上やシャッターの下りた地下鉄入口の前で寝ていたたくさんの人たちはどうしただろうか。
日付が変わった13日のそれからは、大雨。
午後を過ぎてもまだ降り続いた。
ホテルをチェックアウトした後も僕は外出する気になれず、ロビーでぐだぐだテレビを見ながら休んでいたら、どのくらい時間が経ったのだろう。
テレビに急にシャンゼリゼ通りが写った。
人人人の怒涛の人の河だった。
その中にフランスチームの選手たちを乗せたオープンバスが、まるで船を漕ぐように泳いでいた。
「さっきまで雨だったのに・・・・」
驚いてホテルのロビーの窓からパリの空を探すと、真っ青に晴れ渡っている。どこまで天も味方する気なのか、最後の最後まで絶好の演出に、声も出ず感嘆の溜息が出た。
これ以上の世界イベントに出られることは今後もあるかどうか、それほど大きな意味を持った舞台だったと思う。
が、振り返ってみれば、その出演の意味よりももっと大きな財産が、人々の喜びの姿と出会えたことだったと思った。
街中、目にする子供から年配者までほとんどの人が限りなく嬉しい姿、というのはこれまで僕の人生の中で見たことがないように思う。太鼓の音も、山車もなく、一人一人の個人が主役の祭りだ。そしてこれまで見たどの祭りも、この人間のパワーには勝てないと思った。
これまで冷めた顔のパリしか知らなかった僕だが、パリの街のデザインにも改めて感動した。人間が集える広場がたくさんある。
東京だったら百万人を越す人々はいったいどこに集まれるというのだ?
「人間、万歳」、パリは人間が喜びを分かち合える熱き広場だった。
※1998年W杯開会式、閉会式の総合演出監督者「イブ・ペパン」氏を囲んで東京打撃団メンバー、および関係スタッフ一同
● 閉会式の模様を、日本時間の7月13日朝6:40頃から、NHK教育テレビと、NHK衛星放送で生放送された。決勝戦が終わってから時間がずいぶんたっていたので、日本では見た人はそれほど多くなかったようだが、世界各地250局から生放送、あるいは収録放送された。
富田和明の最新公演案内
あなたもタイコが叩きたくなったら、
インターネット版 『月刊・打組』1998年 夏号 No.38
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