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富田和明的個人通信

月刊・打組

1997年 10月号 No.30

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図書館の寄り道

9月24日   

 地下鉄半蔵門線の永田町駅で降り、長い道のりを経て地上を目指す。
 周りを行く人々の顔を見ながらふとオウムのことを思い出したが、この地下鉄でまかれた劇薬の名前を思い出すのに、少し時間がかかった。まだ事件は昔話ではないのに、僕の頭の中では印象が薄れかけている。
 やっと地上に出ると、まだ雨が降っていた。僕は傘をひろげて国会図書館へと向かう。

 ジァンジァンで三宅の話をするのに、島で聞いても判らないことがたくさんあった。祭りが始まった1820年にはどういう社会があったのか?牛頭(ごず)天王は何者か?島の名前「みやけ」の意味は?太鼓のリズムはどこから伝わったのか?
 何か一つでも判ることがあればいいし、一冊の本からまた別の好奇心が頭を持ち上がるのが楽しい。自宅からだいぶ離れているが、この図書館に時間をみつけては通っている。永田町駅から歩いて右側に図書館があり、左に最高裁判所と国立劇場が鎮座している。その時、国立劇場に行ってみようかと思った。先日『日本の太鼓』で出演したばかりだったけれど、ここでビデオを見られることを忘れていた。
 立ち寄った国立劇場の資料視聴室は偶然空いていた。
 ここで見られるのは『日本の太鼓』のビデオだけだが、僕が見たかったのは、第三回出演の八丈太鼓と祇園囃子、第十三回の三宅神着(かみつき)木遣太鼓。
 ゛三宅″を作った時に僕が津村明夫さん以外に特に影響を受けた太鼓打ちが二人いる。一人は菊池隆(たかし)で、もう一人が菊池功(いさお)。二人とも八丈太鼓の名手で、隆さんはその後も色々なところで叩いているのを眼にする機会があったが、功さんのは機会がなかった。
 18年前の第三回『日本の太鼓』で僕が功さんから学んだのは左の連続打撃だ。それまで片方の手でどんどん打ち込むという太鼓を見たことがなかった。こんなことをしてもよいのだ、と新鮮なショックを受けたのだ。僕が驚いて隆さんに功さんのことを訊ねると、彼は元キックボクサーで、あの真空飛び膝蹴りで有名だった沢村忠と同期のデビューを飾っていると教えてくれた。並の太鼓打ちとはパンチが違うはずなのも納得がいく。その彼の打法を今もう一度確認したかった。
 実際にビデオで見た功さんの打法は、僕のこれまで持ち続けていた印象と少し違った。確かに左の連打もしているが、どちらかというと右の連打の方を特長付けているように見える。でも当時の僕には左の連打の印象だけが焼き付けられた。同じものを同じ人間が見ても受けた印象が違った、というのも、なんだか、少し嬉しい。それはそこに18年前の22才の、今とは違う僕を感じることが出来るからだ。
 祇園囃子は、三宅太鼓を考える上で避けては通れない太鼓なのだけど謎がいっぱいある。
 三宅島の百姓藤助、八三郎、又八の三人が伊勢参りの帰途、京都で祇園祭を見て島に帰り、地元神着で牛頭天王祭を始めたのが今から177年前の1820年のことだ。それは記録に残っている。神着の祭りも木遣り唄から始まるし、祭りの形態を祇園から学んだのは分かるが、僕が三宅の太鼓の中で一番強烈なショックを受けた、地元では「打ち込み」と呼ばれている太鼓と祇園囃子がどう関連しているのか、していないのか、それが知りたい。結局ビデオを視ても何も得られなかった。
 三宅よりも約200年早く祇園祭を習って始めた祭が小倉祇園祭で、ここの太鼓は三宅の打ち込み太鼓と兄弟みたいな音創りだ。そして小倉よりも数十年早く祇園祭を習い始めた芸能が佐渡島にもある。それが羽茂の「つぶろさし」で、ここの囃子を聞くと面白い。現在の京都祇園囃子の印象と三宅や小倉にある跳ねたリズムの印象、その両方が感じられるからだ。三宅の打ち込み太鼓と祇園祭の囃子の接点がどこかにあるように思う。僕が今見ることができた祇園囃子のビデオや、レコードの中の祇園はほんの一面でしかない。来年の夏は京都に行って必ずこの眼と耳で祭を体験したいと思った。

 視聴室で『日本の太鼓』のビデオを見ていた時、まだ少し時間があったので、佐渡國鬼太鼓座のも借りてみた。八丈太鼓や祇園囃子と同じ回に出演している。
 まず演奏時間が長いのに驚く。一団体で一時間近い時間をもらっているのは後にも先にも珍しいだろう。そして内容。当時佐渡國鬼太鼓座の総力を結集した舞台がそこにある。すべての演目がその後の太鼓世界に強く影響を及ぼしたものだ。その中でも僕が一番面白く見たのはハンチョウ(故・河内敏夫)と林英哲の三味線だった。真一文字に口を結び、眼を真正面にカッとすえて無表情のように弾き続ける二人なのだが、その二人の座る狭い空間に激しい稲妻が鳴り響いていて、40才の僕がその稲妻に打たれた。ビデオの中の僕は入座して二年、「秩父屋台囃子」と「酒屋唄」の二曲だけに出演している。22才の青年と僕はこの時静かに対面した。
 時間があればもっとたくさんの太鼓を見たかったが、今日はそうもいかず図書館に行くことにした。再び外に出ると雨は止んでいた。

 ? 国立劇場資料視聴室を利用するには予約が必要。?03-3265-7411内線2729



屋根の上の三味線弾き

10月10日   

 青山茶舗はJR浦和駅西口から歩いて5分ほどの距離にある。表通りから見るとそんなに大きな店構えに見えないがここは奥が深い。店の裏に離れ屋や、庭や納屋がある。この105年前に建造された茶作業の為の本格的木造どんとこい建築納屋を改造して誕生したのが、喫茶ギャラリー『楽風(らふ)』だ。それが5周年を迎えるということで、打撃団の仲間たちと一緒にお祝いに駆けつけた。
 『楽風』の店主・青山守一さんは、佐渡國鬼太鼓座から鼓童に変わる激動期に1年弱だったが佐渡にいた。舞台班ではなく、制作その他全般の仕事をしてくれていたように思う。血の気の多い人間の中で、一人静かにこつこつと働いていた。一緒に生活をしていた時には、いるのかいないのか時々気がつかないような存在だったのだが、いなくなってその存在の大きさをしみじみと感じさせてくれる、そう、一服の精神安定剤のような人だった(現在、青山さんは作業療法士の仕事も続けている)。特に現在打撃団代表の平沼にとってはなくてはならない人であったようで、彼が鼓童を辞めてはじめて取り組んだのが『楽風』の開店だった。
 中国留学から一時帰国していた僕も平沼に連れられて、まだ改造が終わっていない納屋で青山くんと三人で話したことがある。三つの頭の上には裸電球があった。床に木製の茶箱を一つ置いて、その上で赤ワインのコルクを抜いた。三人で話すといってもしゃべっているのはほとんど平沼一人なのだが、その薄暗い場所がどのように変身するのか、想像するのは楽しいことだった。その時僕は、中国から帰国した後のこともぼんやりと考えていた。
 それから三ヶ月ほどして、僕はすべての荷物を中国から引き揚げ、東京で暮らし始めた。太鼓打ちとしての活動を再開する具体的な考えは何も思い浮かばなかったのだが、その頃ちょうど『楽風』は開店して、パーティーで三味線だけを弾かせてもらった。その後、太鼓一台を買う余裕もなく、アルバイトに明け暮れていた時代にも声を掛けてくれて、初めての一人語り『中国留学日記』を何度か演らせてもらったのもここだった。僕の太鼓活動が再開できてからはしばらく足が遠のいていたが、今日は久しぶりに帰ってきたという感じである。

 午後三時を過ぎてそろそろ演ろうかと庭で太鼓を叩いた。そして次は三味線を弾こうと太棹を握って外に出たとたん、まぶしい青空の下に輝く瓦屋根が目に入った。
「青山くん、屋根の上にあがってもいい?」お客さんたちが見守る中で僕は聞いた。
「あそこで弾くの?」笑っているのか困っているのか分からないいつもの顔の青山くんは少し間をおいた後で「いいよ」と言ってくれた。
 屋根の上にあがると、そりゃあ気持ちよかった。青空が目の前にあって、太陽に手が届きそうだ(そんなことはないか)。僕は根っから高いところが好きで、佐渡にいた時にもよく屋根で三味線の稽古をしたことはあるが、それはずいぶんと昔のことだったし、お客さんがいて屋根にあがったのはもちろん初めてだ。
 眼を閉じて三味線を弾いていると、太陽の光が体を照りつけて、でもその光はもう夏のものではない、やさしさのある温かみだった。そしてゆっくりと風が僕の頬をなぜた。僕の顔は嬉しくて仕方がないという表情をしていたはずである。

 浦和の楽風をまだご存じない方は、是非お足をお運びください。
 こんなところにこんな空間があったことをきっと驚かせてくれるでしょう。そしてお帰りにそっとその瓦屋根を見上げてください。風の余韻で三味線の音がまだ少し残っているかもしれません。
         

?『楽風(らふ)』埼玉県浦和市岸町4-25-12 ?048-825-3910



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