9月24日
地下鉄半蔵門線の永田町駅で降り、長い道のりを経て地上を目指す。 ジァンジァンで三宅の話をするのに、島で聞いても判らないことがたくさんあった。祭りが始まった1820年にはどういう社会があったのか?牛頭(ごず)天王は何者か?島の名前「みやけ」の意味は?太鼓のリズムはどこから伝わったのか? 視聴室で『日本の太鼓』のビデオを見ていた時、まだ少し時間があったので、佐渡國鬼太鼓座のも借りてみた。八丈太鼓や祇園囃子と同じ回に出演している。 ? 国立劇場資料視聴室を利用するには予約が必要。?03-3265-7411内線2729 |
10月10日
青山茶舗はJR浦和駅西口から歩いて5分ほどの距離にある。表通りから見るとそんなに大きな店構えに見えないがここは奥が深い。店の裏に離れ屋や、庭や納屋がある。この105年前に建造された茶作業の為の本格的木造どんとこい建築納屋を改造して誕生したのが、喫茶ギャラリー『楽風(らふ)』だ。それが5周年を迎えるということで、打撃団の仲間たちと一緒にお祝いに駆けつけた。
『楽風』の店主・青山守一さんは、佐渡國鬼太鼓座から鼓童に変わる激動期に1年弱だったが佐渡にいた。舞台班ではなく、制作その他全般の仕事をしてくれていたように思う。血の気の多い人間の中で、一人静かにこつこつと働いていた。一緒に生活をしていた時には、いるのかいないのか時々気がつかないような存在だったのだが、いなくなってその存在の大きさをしみじみと感じさせてくれる、そう、一服の精神安定剤のような人だった(現在、青山さんは作業療法士の仕事も続けている)。特に現在打撃団代表の平沼にとってはなくてはならない人であったようで、彼が鼓童を辞めてはじめて取り組んだのが『楽風』の開店だった。
中国留学から一時帰国していた僕も平沼に連れられて、まだ改造が終わっていない納屋で青山くんと三人で話したことがある。三つの頭の上には裸電球があった。床に木製の茶箱を一つ置いて、その上で赤ワインのコルクを抜いた。三人で話すといってもしゃべっているのはほとんど平沼一人なのだが、その薄暗い場所がどのように変身するのか、想像するのは楽しいことだった。その時僕は、中国から帰国した後のこともぼんやりと考えていた。
それから三ヶ月ほどして、僕はすべての荷物を中国から引き揚げ、東京で暮らし始めた。太鼓打ちとしての活動を再開する具体的な考えは何も思い浮かばなかったのだが、その頃ちょうど『楽風』は開店して、パーティーで三味線だけを弾かせてもらった。その後、太鼓一台を買う余裕もなく、アルバイトに明け暮れていた時代にも声を掛けてくれて、初めての一人語り『中国留学日記』を何度か演らせてもらったのもここだった。僕の太鼓活動が再開できてからはしばらく足が遠のいていたが、今日は久しぶりに帰ってきたという感じである。午後三時を過ぎてそろそろ演ろうかと庭で太鼓を叩いた。そして次は三味線を弾こうと太棹を握って外に出たとたん、まぶしい青空の下に輝く瓦屋根が目に入った。
「青山くん、屋根の上にあがってもいい?」お客さんたちが見守る中で僕は聞いた。
「あそこで弾くの?」笑っているのか困っているのか分からないいつもの顔の青山くんは少し間をおいた後で「いいよ」と言ってくれた。
屋根の上にあがると、そりゃあ気持ちよかった。青空が目の前にあって、太陽に手が届きそうだ(そんなことはないか)。僕は根っから高いところが好きで、佐渡にいた時にもよく屋根で三味線の稽古をしたことはあるが、それはずいぶんと昔のことだったし、お客さんがいて屋根にあがったのはもちろん初めてだ。
眼を閉じて三味線を弾いていると、太陽の光が体を照りつけて、でもその光はもう夏のものではない、やさしさのある温かみだった。そしてゆっくりと風が僕の頬をなぜた。僕の顔は嬉しくて仕方がないという表情をしていたはずである。浦和の楽風をまだご存じない方は、是非お足をお運びください。
こんなところにこんな空間があったことをきっと驚かせてくれるでしょう。そしてお帰りにそっとその瓦屋根を見上げてください。風の余韻で三味線の音がまだ少し残っているかもしれません。
?『楽風(らふ)』埼玉県浦和市岸町4-25-12 ?048-825-3910
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インターネット版 『月刊・打組』1997年 10月号 No.30
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