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富田和明的個人通信

月刊・打組

1997年 10月号 No.30

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明日の太鼓打ち

11月7日   

 面白い太鼓を叩きたいと思う。
 惚れ惚れするようなかっこいい太鼓でもなく、その姿を見て思わず手を合わせられるようなありがたい太鼓でもなく、リズムが変わっていて面白いというような太鼓でもなく、長い歴史があるというだけの太鼓でもない、面白い太鼓。
 それはその音を聞いて、その叩く姿を見て、いや太鼓を叩かなくてもいいかもしれない、その太鼓を見たお客さんが思わず声を上げて笑ってくれたり、その時に笑えなくても帰りの電車の中で誰かと目が合ったタイミングに思い出し笑いが止まらなくなってしまったり、そういうことがなくても布団を被って眠る体制を固め明日の朝起きる時間を目覚ましにセットしようとした時になぜだか忍び笑いが始まったり、まさかそんなことはありえないと3年8ヶ月が過ぎたある日いつものようにタマネギをみじん切りにしていた夕暮れ時にあの時の太鼓が耳鳴りのように押し寄せたり(単なる耳鳴りかもしれない)、それからどれだけ時間が経過した後かは分からないベッドの横でご臨終を告げる医師の声が心地よい太鼓のリズムに聞こえたりするような、そんな楽しい(?)太鼓のことだ。
 しかし具体的にどういうものかはここで書けるものではない。実は僕にも正直なところ分かっていない。ただ、最近笑えた太鼓がないこともない。
 国立劇場『日本の太鼓』のビデオを見ていて(前回に引き続き資料視聴室にまた行ってきました)、第二回出場の福島白河天道念仏と神奈川藤沢の江ノ島囃子は、楽しめた。どこが面白いのか説明する気は今はない。みんなが同じように面白いと思えるかどうか分からないし。一つだけ種を明かすと、とても無駄と思えるようなことをしていることだろう。それに誰の為にでもない太鼓だと、思える瞬間があることだろうか。ま、理屈はそんなところにしておこう。
 他に今年出演した東京打撃団のビデオも見た。ほんとうは5人組なのだが林田博幸が倉本聡の芝居に出演中でこの時は4人組だった。画面を見ていると関取・舞の海が服を着て元気に動いていた。おかしいな、いつの間に他の番組に変わってしまったんだろうと最初は考えたが、いつも見慣れている打撃団の他のメンバーの姿はそのままに映っていた。10分ほど画面を見ていたが、どうもあれは僕が太鼓を打っている姿らしいことに気がついた。僕の姿だけ異様に太って見えるのは、たぶんモニターの調子が悪いのだろう。自分で毎日鏡に写して見ている姿はこんなのではない。
 僕はちょっとガッカリしながら残りの演奏を見ていたが、例えば、ほんとうにここに東京打撃団のメンバーとして舞の海がいて太鼓を打っていれば、これはこれで面白い太鼓になっただろうなと考えたりもした。しかし前述した面白い太鼓の定義と、これは少し違うかもしれない。


 

国立劇場「日本の太鼓」パンフレット表紙より

(後記/1999.10.22)

●『日本の太鼓』にはこれまでに4回、出させてもらいました。1回目が佐渡の國『鬼太鼓座』のメンバーの時、2回目が『鼓童』の時、3回目が『東京打撃団』で、4回目が昨年の韓国の太鼓の案内役でした(東京打撃団メンバーとして出演)。

●この東京打撃団で出演した模様は、国立劇場『日本の太鼓』がビデオになって販売されています。お求めの方は、キングレコード商品番号「KIVM227」でレコード屋さんに注文して下さい。カバーの一番目立つところに僕の写真がありますが、素顔ではなく残念ながらお面を被っています。


キングレコード商品番号「KIVM227」


海峡を渡るだんじり

1997年11月2日   

 雲一つなく晴れ渡った秋空の下、凪の穏やかな海峡を、僕は明石フェリーに乗って渡っている。対岸の神戸の街並みも今日は鮮やかに陽に照らされている。つい最近までは海の上には空しかなかったのだが、今は大吊り橋が流れるように島に届いている。この来春開通予定の橋の下をフェリーはゆっくりと進んでゆく。頭を上げて橋を見上げると天の川のようにも思えた。

 海を渡る。
 淡路島生まれの僕にとって海を渡ることは、明石海峡を越えてカミへ行くことだった。カミ(上/関東弁でいえば「紙」の発音と同じ)とは京阪神のことを指す。年に数回だけ淡路岩屋から明石に向かう播淡汽船に乗った。当時は30分(現在は20分弱)の非常に短い船旅でも、物心がついた時にはまず船酔いだ。エンジンのある機関室と隣り合わせた客室が甲板下にあって、乗船と同時にそこに潜り、ピストンが唸る音を子守歌にずっと母親の膝枕に頭をのせて横になっていた。小学3・4年になる頃からは甲板で空と海を眺める時間に変わるが、それでも海が荒れれば船底に下り波をかぶらないように過ごした。カミからの帰り、汽船が岩屋港に着きそうになると一刻も早く下船しようとする人たちが出口に集まり、船が岸壁に届く前に、飛び下りて走っていく。どこに行くのかといえば乗合バスに座るためだ。ただそれだけの為に人々は殺気だったように駆けていた。今はもうそんな風景は見られない。
 そういえば、こんなこともあった。
 あれは僕が小学校に上がったか上がらないような頃、両親と明石に行った帰り、これまでなら両親に手をつながれながら船着き場からバス乗り場へ走るところを、もう僕一人でも行けると先に駆け出した。大人たちの一群の中をすり抜けるには子供の方が速い。僕は僕が住んでいる町の名前が前にかかっているバスを捜し、乗る前に運転手さんに確認もして座席を確保した。しかし、それから両親はやってこなかった。おかしい。バスもそろそろ発車しなくてはいけない頃なのに、ひょっとしたら二人は慌てて桟橋から海に落っこちてしまったのかもしれないし、それとも見失ったのもよい機会だと僕を置いてどこかへ去ってしまったのかもしれない。物事には必ず何かしらの原因があって結果がある。パニックになった時は、まずその事実を認めて次に何をしなくてはいけないかを考える。さてどうしたらよいのかと必要以上に強く座席の手すりを握りしめていた時、見慣れた顔の二人が血相かいてそのバスに乗り込んできた。両親だった。良かった。発車に間にあった。僕はホッとしたが、そのまま二人にバスから引きづり下ろされた。両親は僕が海に落ちたんじゃないかと方々を捜し、港内で放送もしてもらったらしい。だからバスもすぐには発車しなかった。バス乗り場には、特急、急行、普通のバスが待ち、同じ行き先でも東回りと西回りのバスがあることをこの時初めて僕は知った。
 余分な話が長くなったが、とにかく僕が島を離れて上京してからも、また佐渡へ渡ってからも、淡路に帰る時には必ずこの船に乗る。何となくドキドキしながら、数多く行き交う大小のタンカーや漁船を見ながら朝や昼や夜の海を見ていた思い出が、たくさんの人々の顔と共に刻まれている。汽船に乗って海を渡る。それが短い時間ではあっても、それは故郷に帰るための儀式になっていた。

 淡路で育った人間にとって「タイコ」と言えば、それは和太鼓のことではない。「だんじり」のことである。もっと正確に言えば「布団だんじり」という名前がある山車のことだが、誰もそんな名前を使わない。「タイコ」の一言で済む。
 だんじりの心臓部に太鼓が一台組み込まれていて、それを子供らが叩く。このタイコのリズムは単純極まりない。どってりとした「そーれ ドン デン ドン」と聞こえる四拍子を繰り返すだけの囃子だからだ。囃子というのも恥ずかしい位のこのタイコだが、僕の心をつかんでいた。この音を耳にしてしまうと、幼い頃の僕は他のすべてのことを放り投げ、その音の在りかを捜す。そして少しでもその音に長く触れていたいと、だんじりの後を付けて歩いた。
 一発一発がとてつもなく大きな音としてタイコの音は僕の体全身に、心の奥にと響いていたのだろう。各町内会ごとにだんじりは牽かれ、それが八台も九台も揃うと気が狂いそうになるくらい僕ははしゃいだ。
 ところが小学校に上がって自分の町内会にはだんじりがなく、太鼓を叩くことも、だんじりを引っ張ることも堂々とできないことが段々と分かっていった時から、この音が嫌いになった。絶対に聞きたくなくなった。祭りの日には理由をつけて他の町に出かけてしまうようになる。そして中学高校と進む頃には祭りのことを少しづつ忘れてしまっていった。
 そんな僕が後に太鼓と出会って現在に至っているわけだが、今回初めて島で開いた『太鼓アイランド淡路 Vol. ?(10/29〜31)』の打ち上げの席で、何人もの参加者の口からこのだんじりの名前が出た。今回の参加者28名の内、21名が女性で、僕よりもまだ上の世代が多い。考えてみれば島ではタイコがいくら好きでも、自分の町内にだんじりがあったとしても、女性はバチをにぎらせてもらえなかったし、だんじりを触ることもできない頃があった。こうして自分の手にバチを握り、思いっきり太鼓を叩くことができるなんてこんなに幸せなことはない。そういう感想を次々に聞きながら、だんじりの思い出は僕だけのことでなく、こんなにたくさんの人の胸裏にあったんだなと改めて確認させられた。
 来年4月5日、明石海峡大橋は開通する。島内だけでも何百台あるかわからないこのだんじりを並べて、岩屋から神戸の舞子浜までの海峡の上を練り渡る祭りこそ大橋の完成儀式にふさわしいのではないかと僕は思う・・・。実際は無理かもしれないがそういう絵を自分で想い描くことは楽しい。橋の大きさに較べるとまるで小さなタイコだが、そこで弾ける人々のエネルギーは決して負けてはいないだろう。



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インターネット版 『月刊・打組』1997年 11月号 No.31

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