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富田和明的個人通信

月刊・打組

1998年 6月号 No.37

このページはほぼ毎月更新されます。年10回の発行

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仰げば 高し クモの糸

6月19日

 梅雨なんだからしょうがないけど、公演の日はやっぱりカラッと晴れて欲しい。また雨か、と呟きながら渋滞の国道246号線をぼそぼそ走り、三軒茶屋の交差点を左に曲がった。
 右手にドンと鎮座しているのが26階建てのキャロットタワービルで、この中に世田谷パブリックシアターもある。時間はちょうど朝の10時。ハイエースを地下の搬入口に入れる。
 どうやら到着は僕が一番遅かったようだ。他の四人はもうすでに搬入を終えたようでアルバイトの姿しか見えない。「おう、そうかそうか」。予定時間より早く来て作業を終えているのは気合いが入っている証拠である。僕はゆっくりと車を止めた。
 搬入を始めようと思ったら、岐阜のIさんが「おはようございま〜す」と言って僕の前に現れた。「どうしてここにいるの?」驚いた僕がたずねると「公演見に来たんですけど、どうせだから手伝わせて下さい」と笑顔で答える。Iさんは御夫婦で、そして御両親も一緒である。誠に有り難いことです。
 四階の舞台に上がると、搬入された太鼓や道具のセッティングと照明の仕込みでごった返している。
 その一角で、まず今日が初演になる僕の新曲『石敢當』の太鼓選びから始めた。どの大きさの太鼓を使うかを決めて、舞台上のバトンに吊る為だ。
「ホントに吊っちゃうの?」
僕は演出の平沼に最終確認した。
「もう吊ることにして劇場にもン万円払ってあんだから頼むよ」
彼はいつものように無愛想だが声が嬉々としている。平沼は本番、舞台に立つわけではないが、今日一番気合いが入っているのは彼の筈だ。そうでなければこれだけの数の人間が動かないのだ。大勢の人間が夜の公演をめざして突き進む気迫がそこには漂っている。
 一本のバトンに太鼓をぶら下げる別料金は聞いただけでビックリする値段だが、自主公演で劇場を使うと何かとこの調子で物入りである。勿論、吊らなくても演奏はできる。できるけれど吊ってしまう。何の意味も持たないが僕はそれも面白いと思う、それが演出だ。
 実際にぶら下げると、ロープが蜘蛛の糸のように見えた。僕は真ん中の太鼓だけでも二尺にしたかったが、みんなの意見を聞いて結局一尺五寸の宮太鼓三台に決める。
 横打ちの太鼓の曲はこれまで『さんぱち太鼓』という名前で二人で演奏してきたのがあるが、もっと複数の人間で叩ける曲を前から作りたいと思っていた。それがやっと形になったのが『石敢當』だ。
 名前のことを話せば、石敢當は普通「いしがんとう」と読む。元は中国語で泰山石(中国五大名山の一つ泰山の石は魔除けになる)の代わりに石敢當という文字を書いて魔除けにしたが、今の中国ではほとんど眼にしない。僕の知る限りこの言葉に多くぶつかるのは沖縄だけだ。地区によってはT字路や家の脇など至る所で見られる。石敢當をサシビと読むのはまったくの当て字で、サシビは朝鮮語で「42」のこと。今年が僕の厄年なのでこの言葉を当てた。世の中を見渡しても良いニュースが少ない。太鼓を叩いただけで良くはならないだろうが、叩く時の気持ちには色々な願いがある。
 楽屋に入ると健作が頭飾りの太鼓台の直しを熱心にしていた。
 今回の公演の幕開きは、メンバー紹介から始まり、太鼓打ちは太鼓を、笛吹きは笛を頭に乗せて登場することになったが、これを決めたのが公演一週間前の打撃団最終稽古日で、各自でこれを準備することになっていた。しかしこれがなかなか難航して当日作り直しているというわけだ。
 この太鼓は叩くわけでもなく、ただ頭にのっかっている、それはあたかもその人物の体の一部のようにという解釈で・・・、こういう発想をしてそれを実際に舞台で出来る打撃団が僕は好きだ。
 メンバー五人と平沼を含めた六人がそれぞれの意見を出し、こだわりの強い皆が面白がって一つの方向性が見えていく時が一番楽しい(いつもこうなるとは限らないが)。
 昼の二時を過ぎてリハーサルを始めた。今回も演奏曲目としてチラシに書いてある曲だけでも14曲あって、このうち8曲が新曲なのである。
 照明さんも演出もこのリハーサルを見ながら同時進行的に舞台を作ってゆく作業が、開場時間ぎりぎりまで続く。
 リハーサル中、上手の袖奥で闇にまぎれたIさんのダンナさんの姿を発見して「どうせ見るのだったら、客席で見た方がいいですよ」と僕は声をかけたが「前からは本番でも見れますから」と動かない。その答えを聞いて僕もそれはそうだと納得した。打撃団公演は、短い限られたリハーサル時間にそのほとんどが作られるからだ。リハーサルと本番二つを見較べるとそのギャップに驚かされるだろう。
 特に新曲8曲中のソロ4曲は、メンバーお互いもスタッフもリハーサルで初めて見るものだ。安直に作りすぎるという非難もあるが、「えー、さっきこんなの出来ました。ちょっと見てみますか?」という雰囲気のものも良いのではないかと僕は思うのだ。こういう曲はその夜限りの出し物になることが多いが、劇場にその日来ていただいた方だけへのおみやげみたいなものだ。
 そして夜七時、幕が開き、九時には幕が降りる。

 僕は先ほど書いた『石敢當(サシビ)』に全力でぶつかり、その後は何だかすでに息が切れ、意識がどこかへ飛んでいってしまったような状態で太鼓を叩いていた。
 僕のもう一つの新曲『花花(新バージョン)』と『石敢當』は三人(健作と博幸と)でかなり稽古をした上での初演だったので失敗があっても思い残すことはない。僕の大太鼓ソロは今回もぶっつけだった。
 公演の全体を振り返ってみて一番好きなのは幕開きだったが、それ以外にやっぱり書いておきたいのは佐藤健作の大太鼓ソロだ。
 今日の為に彼は特大のバチ(長さ85?、直径43?のヒノキ材)を自分で作った。これで三尺二寸の大太鼓を連打したのだ。これこそ他の太鼓打ちに真似のできない技とバカバカしさで、僕好味の太鼓だった。
 それと全編を通じて、林田の粘り強さにも僕は頼もしさを感じた。 
 東京打撃団公演はいつもフタを開けてみなければ何が出てくるかわからない、そんな音の玉手箱でこれからも有り続けたいものだ。

 そんなことを考えながらまた眠れぬ一夜を過ごしてしまった。一旦は閉めた雨戸を開け放つと、あれほど激しかった風は止んでおり、夜はもう静かに明けていた。

 


『兎小舎 なにみてたたく 第12夜』に
平沼仁一 が登場します!
緊急決定

 表舞台にはほとんど顔を出したことのなかった平沼が、初めて皆さんの前に現れ、皆さんの前で語ります。もし彼の存在がなくなれば、東京打撃団はすぐさま解散間違いなし。平沼の何が太鼓打ち達を引き留めているのか。これからの和太鼓世界をどう観ているのか。今年は国内以外にも韓国、フランス、アフリカなど海外を多く飛び回っている隙間をぬって兎小舎に登場します。

 僕と同い年の平沼を初めて見たのは、今から18年前のある昼飯前の時間だった。午前中の稽古を終えて食堂に行くと、キツネ目の痩せた青年がニタニタと意味もない笑いを浮かべながらテーブルの前に座っていた。その頃毎日たくさんの人間が出入りしていたし、一緒に食事をするお客様やよくわからない人も多かったので、特に気にも留めないでいたが、数日後に出発した公演ツアーにすでにスタッフの一員として参加していたのは、非常に珍しい事だ。話の面白さと行動力、当時すでに鬼太鼓座は非常に重大な局面を迎えており(代表の田耕氏と座員との対立)、色々と不安定な時期だったからこそ、人と人との心をつなげる不思議な魅力を持っていた彼が歓迎されたのだろうか。これが当時、佐渡國鬼太鼓座に現れた23歳の彼の姿だった。

 最初はプレイヤーとして稽古もし舞台にも立った(佐渡國鬼太鼓座10周年記念「読売ホール公演」パンフレットをお持ちの方はぜひもう一度開いて下さい)が、すぐ鼓童創立にともない舞台制作、村づくりの用地買収、建設、EC(佐渡で毎年開催されているアース・セレブレーション)の開催などに力を注いでいく。

 僕も平沼も青春時代は佐渡が舞台だったが、一足早く佐渡を離れ中国に留学し日本に戻った僕と、その少し前に佐渡を離れ東京に拠点を構えようとしていた平沼が再び会い、徐々に現在の形のようになっていく。12年間で太鼓の世界に区切りをつけた僕が、もう一度太鼓の世界に戻ったが、平沼がいなければどうなっていたか分からない。後悔はしていないがしかし、この選択が良かったのか悪かったのか・・・。どちらかが先に死ねば、残ったどちらかが葬儀委員長を務めることになっている。答えはその時に語られる筈である。
 7月23日の第12夜は、その前笑戦の一夜と呼べるかもしれない。

みなさまのご意見、ご感想をぜひお寄せ下さい!

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インターネット版 『月刊・打組』1998年 6月号 No.37

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