梅雨なんだからしょうがないけど、公演の日はやっぱりカラッと晴れて欲しい。また雨か、と呟きながら渋滞の国道246号線をぼそぼそ走り、三軒茶屋の交差点を左に曲がった。 僕は先ほど書いた『石敢當(サシビ)』に全力でぶつかり、その後は何だかすでに息が切れ、意識がどこかへ飛んでいってしまったような状態で太鼓を叩いていた。 そんなことを考えながらまた眠れぬ一夜を過ごしてしまった。一旦は閉めた雨戸を開け放つと、あれほど激しかった風は止んでおり、夜はもう静かに明けていた。 |
表舞台にはほとんど顔を出したことのなかった平沼が、初めて皆さんの前に現れ、皆さんの前で語ります。もし彼の存在がなくなれば、東京打撃団はすぐさま解散間違いなし。平沼の何が太鼓打ち達を引き留めているのか。これからの和太鼓世界をどう観ているのか。今年は国内以外にも韓国、フランス、アフリカなど海外を多く飛び回っている隙間をぬって兎小舎に登場します。 僕と同い年の平沼を初めて見たのは、今から18年前のある昼飯前の時間だった。午前中の稽古を終えて食堂に行くと、キツネ目の痩せた青年がニタニタと意味もない笑いを浮かべながらテーブルの前に座っていた。その頃毎日たくさんの人間が出入りしていたし、一緒に食事をするお客様やよくわからない人も多かったので、特に気にも留めないでいたが、数日後に出発した公演ツアーにすでにスタッフの一員として参加していたのは、非常に珍しい事だ。話の面白さと行動力、当時すでに鬼太鼓座は非常に重大な局面を迎えており(代表の田耕氏と座員との対立)、色々と不安定な時期だったからこそ、人と人との心をつなげる不思議な魅力を持っていた彼が歓迎されたのだろうか。これが当時、佐渡國鬼太鼓座に現れた23歳の彼の姿だった。 最初はプレイヤーとして稽古もし舞台にも立った(佐渡國鬼太鼓座10周年記念「読売ホール公演」パンフレットをお持ちの方はぜひもう一度開いて下さい)が、すぐ鼓童創立にともない舞台制作、村づくりの用地買収、建設、EC(佐渡で毎年開催されているアース・セレブレーション)の開催などに力を注いでいく。 僕も平沼も青春時代は佐渡が舞台だったが、一足早く佐渡を離れ中国に留学し日本に戻った僕と、その少し前に佐渡を離れ東京に拠点を構えようとしていた平沼が再び会い、徐々に現在の形のようになっていく。12年間で太鼓の世界に区切りをつけた僕が、もう一度太鼓の世界に戻ったが、平沼がいなければどうなっていたか分からない。後悔はしていないがしかし、この選択が良かったのか悪かったのか・・・。どちらかが先に死ねば、残ったどちらかが葬儀委員長を務めることになっている。答えはその時に語られる筈である。 |
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インターネット版 『月刊・打組』1998年 6月号 No.37
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