インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

1999年 5月号 No.46

このページはほぼ毎月更新されます。年10回の発行

オリジナル版御希望の方は『月刊・打組』についてをご覧下さい


『思い起こす灯火

5月23日   

「もしもし富田さんですか?私ですよ?」
女性の声である。電話の受話器を握ったまま、僕の頭の中は超高速で回転を始めてはいたが、だめだ、わからない。
「はいはい、どうも〜 お久しぶりで〜す」
こう答えるより他、手はなく、傍らで駆け回る子らの叫声のお陰で、幸いまだ家内には気づかれてはいないようだ。
「いや〜 元気? 今日はいい天気だね」と言葉がすらすらと続く僕。
「富田さんわかりましたか? Sですよ」
「え〜、S!」
ここで僕の言葉が止まった。

 超高速回転中に一瞬その名前も頭をよぎりはしたが、それにしては声がクリア過ぎたので、結論を出せないでいた。
 中国朝鮮族自治州・延吉(ヨンギル)のSだ。
 拙書『豆満江に流る(第三書館)』ではミホアの名前で登場する、僕が下宿した家の姉妹のお姉さんの方だ。そのSが東京に留学に来ていた。
 ビール大瓶一本20円、大学教授の月給が三千円の世界(この値段は七年前のだから、今は少し上がっていると思うけれど)、そこから日本に留学に来るには少なくとも50万〜百万円のお金が必要だ、そのお金が準備できたのか?そして日本での保証人が見つかったのか?その問題が解決したからこそ東京に来ているのだろうが、これは簡単なことではない。
 延吉市は、ちょっと気に止めていると今は頻繁にテレビにも登場する、北朝鮮と中国の国境にある州都だ。ここに住んでいた時、多くの人から日本に留学に来る為の保証人になってくれ、または探してくれ、力になってくれと頼まれた。
 しかし、僕個人はまったく非力であって、自分がお世話になった先生にも、下宿先にも手助けができなかった。誰か他に助けてくれる人がいたのだろう。
 受話器に左耳を付けたまま、僕は胸の中で「よかったな」と思い、そして、力になれなかった自分が少し恥ずかしかった。
 後日、そのSが遊びに来ることになる。

 延吉で共に過ごしたSと、東急田園都市線『たまプラーザ駅』駅前で再会するとは、夢想だにしなかった。
 大学卒業後、結婚して二歳になる息子もいるはずだが、異国に渡ってまだ間がない緊張からか、以前よりも張りのある笑顔のSがそこにいた。
「オレガンマニヨ〜(ひさしぶり〜)」Sの顔を見ると何だかどんどん朝鮮語が僕の口から飛び出す。普段はまったくしゃべれないし、去年国立劇場『日本の太鼓』で韓国の人たちと話す時も非常に苦労したが、Sの顔を見ると僕の中の何かが溶けて出てくるようだ。

 延吉で一番世話になったのはSのオモニ(母)とアボジ(父)だ。
 僕の下宿の部屋は、母屋の前にある離れの部屋だった。広さは三畳くらいあるが、半分は石炭置き場とオンドルの焚き口と釜、水道の蛇口のスペース、残り半分がオンドルで、その角に小さい机を置いて、薄い布団を敷けば部屋は一杯になる。小さくても必要なものは全部あった。
 一つしかない外の共同トイレは、アボジが毎朝四時半に掃除し、汚れた紙を大通りのごみ捨て場に運んだ。アボジはある学校の学長をしていたが、自分で家を建て、僕のように何部屋か人に貸して生計を立てていた。
 オモニは元医者だが家にいることが多く、僕とも一番長い時間接した。
 僕が胃腸炎になった時、必死で世話をしてくれたのもオモニだ。特に病院に通う時が大変だった。受付も検査も薬をもらうのも、じっと待っているだけでは、何年かかっても診察さえ受けられないのが中国の病院の常だ。必ず付き添いの人間が必要で、その付き添いが死にものぐるいで受付をしないといけない。
 ある時、僕は胃カメラの検査を受けた。医師が僕の胃壁の一部を摘んで小箱に入れる。それを持たされ、検査機関の受付の窓口に渡すのにも手間がかかった。
 僕は青い顔をして後ろの長椅子で座っていただけだが、山のような人だかりの窓口から帰還してきたオモニは指から血を流していた。オモニは大丈夫だと笑ったが、窓口のガラスで指を切ったのだ。手が一つか二つしか入らない窓口めがけて何十本もの手がもつれ合う格闘の末の代償だった。
 なぜこのような方法で、患者が同じ病院内の多数の受付間を循環するのか、日本では考えられないことだろうが、これが延吉での常識だった。
 他にも本には詳しく書いたので重複は避けるが、何だかそんな萬物萬象が、Sの顔を見ただけで、溶けて流れ出てきたのだろう。
 僕も今は音楽活動のようなことをしているが、人間が生きていく上での大切な経験は、延吉時代にたくさんあったように思う。
 現在、毎日が何かに追われるような生活に感じる時、非常に大事だといわれる舞台を前に緊張する時、理不尽の物言いや出来事に遭遇する時、僕はあの三畳の部屋でオンドルに火をおこしていた事を思い出す。
 別にこんなことは、どうってことはない。ゆっくりと火を灯して温まろう。そう胸に思い起こす。
 僕の今の生活の中で突然現れたSは、オンドルの火である。

 Sが横浜の我家を訪ねてきて、何年か振りかで延吉のアボジとオモニに電話を掛けてみた。あの時と、まったく変わらない温かい声が、耳に響いた。


二周年は磯の香り』

5月26日 

 「太鼓アイランド青葉」二周年記念祭が無事終了いたしました。冊子『打ち出の言葉』も好評で、編集の吉永共々喜んでおります。皆様ありがとうございました。
 さて、今回の「打ん話会」お楽しみゲストですが、仰天、あの三宅島の津村明男さんが突然駆けつけて下さり、そして飛び入りゲスト出演をして下さいました。僕も顔は笑っていましたが、心では泣いていました。嬉しかったです。
 津村明男さんを知らない人がまだいるかもしれませんが、一言で説明すると、「鼓童『三宅』のお母さん」です。お母さんがいないと『三宅』は誕生していません。伝承芸能に個人の名前が必要ないという考えの方もいらっしゃるかと思いますが、それは間違いです。個人あっての伝承芸能です。
 僕は当事者としてはっきり言えますが、今から17年前の一九八二年一月二九日の夜、津村さんの叩く姿を見たからこそ『三宅』は生まれたのです。
 その津村さんの叩く太鼓は、まさに磯の匂い、太鼓アイランド。場所が横浜市青葉公会堂の舞台であっても、すぐにそこが太平洋三宅島のテングサ小屋に早替わりしました。
 
 そして元々のお楽しみゲストは、二組ありまして、一組は和太鼓ルーム『本類打(ほんるいだ)』。
 僕とは鼓童の創始期からのつき合いになる、この吉田 貴保(たかやす)さん類(るい)さん親子と、月一回太鼓を叩く時間を持つようになって、まだ三年くらいでしょうか。
 類さんは、ダウン症のハンディがありますが、太鼓を打つことではハンディではありません。
 彼に似合う言葉が「本心」「本気」「本当」「本音」、いつも「本」の字がつきます。これまで僕と過ごした時間の中でも、こぼれるにこやかな笑顔と、少し疲れた笑顔の二つしか見たことがなく、この笑顔に僕自身何度慰められたか判りません。
 お父さんの貴保さんも、僕はいまもって信じられませんが、来年定年を迎えられる某有名企業の方で、これまでどのように会社を渡ってこられたのか不思議なくらい、類さんと同じ心を持った方です。
 この日が『本類打』のデビューとなりました。
 もう一組は、お一人。
 佐久間 澪(みお)さん。出会いは佐久間さんが一度、太鼓アイランド青葉に参加された時のことです。どう見ても立ち振る舞いが舞台人で、たずねましたところ、元童謡歌手、元役者。現在は、語りと和太鼓『木精(こだま)』を主宰し、和太鼓の研究会「風の鼓」をやっておられるという答でした。
 なぜか僕と似ている部分を多く感じ(佐久間さんは、非常に上品な女性で、そこは僕と大違いですが)、休み時間に太鼓も一曲叩いていただくとこれが、最近多い男勝り系腕力女性太鼓ではなく、年齢を重ねてこられた重みと軽やかさ、経験からにじむ優しさが弾ける太鼓。
 こういう人の太鼓を僕は見たかった。今後もお付き合い願いたいと思い、この日を迎えた次第です。


みなさまのご意見、ご感想をぜひお寄せ下さい!

Copyright 1999-2000 Tomida Kazuaki. All rights reserved.

 


インターネット版 『月刊・打組』1999年 5月号 No.46

電網・打組、富田へのご意見、ご感想、ご質問は、

Eメール utigumi@tomida-net.com まで

メニューに戻る