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富田和明的個人通信

月刊・打組

2000年 10月号 No.60(10月30日 発行)

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『両国秋の陣 終演』

10月6〜7日

 毎回、打撃団の東京公演というのはヒヤヒヤどきどきしながら本番の日を迎えている。それが楽しい(?!)。年二回のこの自主公演は、新曲を発表してゆく場でもあるからだ。
 今回も一ヶ月前位から、この公演の為の曲を書いたり、稽古したり合宿したりで気持ちを集中させてきたが、公演直前の追い込みはいつになく激しかった。そして両国シアターx (カイ)公演の初日を迎える。
 この公演では、打撃団で初めて演奏披露する初演の曲や実験的な曲が多く、全演目の内、半分が新曲だった。その中でも僕の『貉子做夢(たぬきの)』は、完全な初演。少ない稽古時間でやっと発表するところまでこぎつけた。
 この曲を作り始めた時は、ふせ宮太鼓五台の正統的(どこが?)な曲調だったのが、八月アサヒロビーコンサートで孟暁亮さんと一緒に演奏した中国の打楽器曲『鴨子拌嘴』『老虎磨牙』(いずれも作曲/安志順)の不思議な間合いに心動かされ、リズムが七変化八消失する、狸を題材とした曲に変わってしまった。見ている方も叩いている方もポカンとする、見終わって家に帰ってから寝る前につい思い出し笑いをしてしまう、そんな曲にならないかと思っている。
 他にも林田博幸の新曲が多く、覚えるのが大変。それに『ういろう打ち』もこの前「兎小舎 なにみてたたく」公演で演奏した曲だが、何回稽古しても間違う難曲(自分で作っておいて何ですが)だし、それと僕にとっては大変な曲(肉体的に)がもう一曲ありまして、そんなこんなで緊張しまくり、手慣れた筈の曲まで大緊張だった。
 どんどん新しい曲を作ってやってゆくエネルギーがグループにないと強くはなれないが、いつまでこの状態が続けられるだろうかと思う。
 公演二日目の朝、起きると体がバリバリのガチガチ。昨日、無理な体の力を使ったことが証明されたようなもの。二十年もやっててこれだからな、などと思いながら、朝、ウォーキングを一時間ほどやり、車で劇場に向かうと、通常なら一時間半の距離の所を、大渋滞で三時間もかかってしまう。開場一時間前にやっと到着して慌ただしく準備に取りかかる。そして本番。二日目というのは不思議と無駄な力が抜けてよろしい。公演終了後にも一日目のような激しい疲れはなかった。これならもう少し続けられそうか。


『叩いて巡る 青空 神無月』

10月8日〜29日

10月8日(日)
 太鼓と芝居のたまっ子座15周年記念公演『いのちの種』をセシオン杉並に見に行く。作・演出、そして代表も務める末永克行氏は、僕が鬼太鼓座に入座する一年半前、学校(横浜放送映画専門学院/現・日本映画学校)で最初に太鼓と笛の手ほどきを受けた先生だ。僕の太鼓の初舞台も末永先生のグループとして出演している。その後、僕は鬼太鼓座へ、先生はたまっ子座を創設するが、僕はこれまで公演を一度も見ていなくて、これが初めての観劇だった。
 正直なところ、期待以上の面白さと完成度の高さに驚いた。出演者12名の計算された動き、演技力、もちろん全員のレベルはまちまちだが、動物、鳥、植物、その他生物、人間が次々登場して太鼓を中心に叩くことで命を表現しようとしていた。一つだけ残念だったことは、肝心の太鼓の音が全部ボコボコだったことだ。そこが惜しい。

10月9日(月)
 朝刊を広げると、高木仁三郎さん訃報のニュースが報じられていた。
 僕が一番最初に読んだ高木さんの本は『プルトニウムの恐怖(岩波書店)』だったと思う。まだ佐渡にいた頃、ツアーの中休み、日向ぼっこをしながら自分の部屋で読んだ。読むほどに背筋が寒くなった。この本で初めて原子力発電所の存在の恐怖を知らされた。
 あれから二十年近くが過ぎ、多少なりとも原子力発電の底なしの恐ろしさを社会も認めざるを得なくなっているとは思う。チェルノブイリも東海村の事故も経験したし。が、まだまだ日本政府が押し進める原子力行政は留まることも知らない。
 そんな中で、高木さんは一科学者の立場から、私たち一人一人に解る言葉で危険性を説いてくれた。脱原発を政治的に叫ぶのではなく、一人間として臨床の最後まで発言された。原発はいらない。一人でも多くの人がそう声に出せますように‥‥。合掌。

10月13日(金)
 太鼓アイランド淡路の講座もこれで十二回になるが、淡路島滞在中、毎回、講座以外にも色々な活動がてんこ盛り状態になってきていて、今回は僕の母校・中学校で太鼓の演奏とお話を体育館でやってくれという依頼がきて、この日に行われた。
 全国で今、中学は沢山の問題を抱えていて僕の母校もご多分に漏れず、日々その問題に取り組んでいるということだ。僕に何ができる訳でもなく、話も役に立つとは思えないので、生徒が叩く太鼓を最後のメインイベントにした。前日集まった13名に二時間のワークショップをして即席の太鼓チームを作り、本番で叩いた。
 この発表の前に、六百人の全校生徒で掛け声を出す練習をしたが、僕が呼びかけても見事にみんな声を出さなかった。一人一人の生徒の所へ行って僕もしつこく迫ったが(嫌がられてるっちゅうのに)反応はなかった。それでも後ろで大きな声を出している人に気が付いた。それは校長だった。ありがとう校長先生。
「ソィヤ! ソィヤ! ソィヤソィヤ!」どのくらいの時間叫び続けたか判らないが、僕はとことん一人で叫んだ。僕が目の前に座っている中学生だったとしたら、僕もやっぱり声を出さなかっただろう。でも自分たちの輪の中に入って来て意味のない声を叫び続ける大人を見て、こんな馬鹿なことをしてでも人は生きていけると思ってもらえればそれでいいと思っていた。

10月21日(土)
 このところ秋は学校公演やら企業のパーティー、イベントなどで大変に忙しい。浅田次郎の「薔薇盗人」も買ってそのまま、ページも開いていない。もう少し心が落ち着いてから活字を追いたいと思いながら、これではいつになったら読めるのか判らない状態だ。風邪など引かぬように、新年まで過ごしたいと念じる。とにかく今日は早く寝なくっちゃ。

10月23日(月)
 今日は怒濤の二週間の始まりの一日。昨日は家で仕事をするつもりが連日の疲れが溜まりに溜まって眠ってしまい、夕方に眠ったら最後起きられなくなってしまい朝になっていた。慌てて早朝より机にかじりついていたものの新曲はちっとも進まず、昼になり熊ちゃん(熊谷修宏)と約束のリハーサルもいろいろと横道にそれながら気が付いたら夕刻の5時。大雨の中、太鼓アイランド青葉のワークショップに出かけると、この雨の中でも参加者の方は集まってくれた。嬉しくなってどんどこ叩いていると9時。雨は上がっていた。明日も出発は早いぞ!

10月27日(金)
 ザ・コンボイが現在、青山劇場で公演中(「新・タイムトンネル」)だが一昨日と今日、公演前の時間を使って太鼓指導に行って来た。
 現在公演中の演目の中で太鼓を使うことになり、今年春から東京打撃団がその指導と作曲を受けている。
 これまで、僕はほとんどそれに参加していなかったが、次回のディナーショーでも太鼓をやることになっていて、それを担当することになっている。今日の太鼓指導は、新しく参加するメンバーの個人指導だった。
 楽屋では憧れの人たちがウロウロしている(出演者なんだからあたりまえだが)ので、行くだけで僕も胸が躍る。毎回、代表の今村ねずみさんとも少し話をする時間をいただいているが、ホントに眼がキラキラしている。僕とほとんど歳がかわらないんだけど、驚異的な同世代だ。

10月29日(日)
 鼓童時代、ちっとも上達しない三味線を何とかしたいと思い、門を叩いたのが新潟市在住の木田林松次師でありまして、短期間だが住み込みもさせてもらった。津軽ものの曲を何か習ったというのでなく、三味線弾きというものの後ろ姿を拝見させて頂いた貴重な時間を過ごした。
  一度、鼓童メンバーとしてジョイント(僕は太鼓で)させていただいたことはあったが、僕が佐渡を離れてからは会う機会がなくなり、それが、たまたま新潟県越路町に先生のお弟子さんがいらしたことで、地元・豊年民謡まつりの特別ゲストに呼んでいただき、先生とジョイントの時間も作っていただいたのだ。
 先生の弾く三味線を横で眺めながら太鼓を叩いていると、あの二十年近くも前、僕が他のお弟子さんらにお茶を出したり、今は成人されている筈の娘さんのおしめを換えたことや、昨年急逝された、優しい笑顔だった奥様のことを思い出したりした。
 この三味線と太鼓の曲は『TOKI-MEKI』という名前を付けた。

※本文の一部は、HP「おまけページ」の内容と重複しています

※『月刊・打組 十一月号』は勝手ながらお休みさせていただきます。その替わり来年新年号は合併号とせず、一月号、二月号と分けて発行します。御了承下さい。次号発行は十二月、十二月号となります。

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インターネット版 『月刊・打組』2000年 10月号 No.60

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