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富田和明的個人通信

月刊・打組

2002年 1月号 No.72(1月30日 発行)

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太鼓打ち 誕生

1月29日

 あの日、照りつける夏の太陽の日差しの下、マイクロバスの上に乗っかって、溶接された鉄の台上でロープをくくりつけている男がいた。上半身が裸の短パン姿、全身が真っ黒に近い色に灼けていた。
「公演があるんですか?」
「ええ、明日ここであるんですよ」
 男の揺れる髪とこぼれる歯の白さが、僕の胸に何かを灯した。
「そうか鬼太鼓座もここでやるんだ」

 新宿厚生年金会館には当時大ホールと小ホールがあって、大ホールでは僕が出演していた西友ファミリー劇場『堺正章の孫悟空』、そして小ホールでは翌日の公演にそなえて佐渡から来た鬼太鼓座が搬入仕込みをしていたのだ。その彼らと僕は出くわした。何て偶然なんだろう。
 この年の夏、僕は初めてとも言えるキチンとギャラの出るいい仕事を師と仰ぐ、関矢幸雄先生から頂き全国を回っていた。
 一ヶ月間稽古をして、約40日の旅。藤沢市民ホールで初日の幕が開いてから十日が過ぎている。この旅の中で完全にオフになる日は数日しかなく、そのわずかな休みの一日が翌日、つまり鬼太鼓座公演の日と重なった。それも、ここで彼らと会わなければそのことも知らされなかった筈だが。
 翌日、僕は導かれるようにして劇場に向かい、そして通路に座る一人の観客となっていた。

 この時の公演は鬼太鼓座にとって大きな岐路に立つ公演であったと、後で知る。なんせ一日一回の公演を、切符を売りすぎていたということで、急遽二回公演に変更していて、その対応でロビーが大混乱に陥っていた。僕も当日券売り場で並んでいたら、そのまま知らないうちに劇場の中に入ってしまっていた。それもお金を払わずに。こんなことはそうないだろう。そして、そこで幕が開いた。
 この時の感想は本(『万里も未知も一打から』うちあけばなし)にも書いたが、とてつもない衝撃を受けた。そして、その衝撃が彼らの太鼓を叩く姿を見ながらある決心に変わっていく。
「役者の道はあきらめて、佐渡に行く。太鼓打ちになる」
 幕が閉まった時には、すっかりその誓いを立ててしまっていた。

 鬼太鼓座の公演を見たのはその時が初めてではなく、たぶん三回目くらいだったと思う。初めて鬼太鼓座の名前を見たのは雑誌PHPの特集記事でのこと。こんな生活をしている人たちがいるのかと、その驚きだけで学校(横浜放送映画専門学院)の春休みか冬休みに、初めて佐渡まで遊びに行った。島はまるで雪に埋もれていた。
 この時はただの好奇心だ。稽古場や生活の場を見学して、その厳しさ迫力に驚いたが、まだその時は「これから役者になりたい」と燃えていたので、自分がこの生活をやりたいとはとても思えなかった。
 新宿厚生年金会館の通路に座っていたのは、その冬から数えて一年半の年月が過ぎていた。
 僕は役者志望の過程で、いわゆる下積み修行中だったが、その演劇世界を垣間見た。短い時間ではあったが、世界の一番下にいる自分の目から、その華やかな部分、影の部分を見て、「どうも違う」と違和感を持ち始めていた。長く自分が過ごせる世界ではないと気がつきだしていた頃だったのだ。それがその日のうちの決心につながった。

 夏の公演『孫悟空』が終わって、さっそく僕は佐渡に渡った。今度は入座願いにだ。それは九月の始めだった。
 訪れた時、鬼太鼓座では秋のヨーロッパ公演出発直前で、時差稽古なる不思議なスケジュールで生活が進行していた。ただでさえ特異な生活なのに、時差稽古は、ヨーロッパに着いてすぐに時差なく生活できるよう、日本に居るときから一日一時間ずつ遅らせ、到着時に現地時間と同時になるというシステムだ。これはこの後、一度も実施されなかったので、たぶん不評で意味がなかったということだろう。
 とにかく僕も調子が狂いそうなものだけど、もうその時は何事も目に入らず「入りたい」という気持ちしかなかったので、よく覚えていない。
 一つ、強く覚えていることがある。
 夕食後の夜(時差稽古中では朝だったかもしれないが)、稽古場入口の土間でハンチョウ(故・河内敏夫/後の鼓童創設代表)がバチを作っているのを僕が眺めていた時のことだ。
「君はいい眼をしているから、いけるかもしれない」と、バチを削るカンナの動きを止めてハンチョウがそれだけを言ってくれた。
 これはほめられたと思っていいのだと自分では思っている。
 その後、佐渡では12年を過ごすけれど、ほめられた記憶がない。この一番最初の言葉だけが胸に残っている。
 瞬く間に一週間が過ぎ、ヨーロッパに旅立つメンバーと一緒に佐渡を出発し、僕はみんなのボストンバッグと小さい太鼓を積んだバンの助手席に座らせて貰い、三国峠を越え、東京に戻った。

 当時住んでいた横浜の陽の当たらない三畳アパートを引き払い、お世話になった先生に辞める理由を説明し、淡路の両親にも話をし荷物をまとめた。それで正式に佐渡に渡ったのが、1977年10月1日だった。

 大方のメンバーは不在で、留守を守る女性三人だけがいた。正確には田耕さん(昨年亡くなられた・鬼太鼓座代表)の幼子を含めて四人。そこに僕が加わった。
 一番の感動は、島で味わった、豊かで美しく、激しく柔らかい、自然の生命力にだった。
 僕の入座時の目的というか目標は「はやく舞台の中心で太鼓を叩けるようになって、世界を回りたい」というものだったが、島での生活が始まるとそんなことよりも毎日毎日、島の自然に心が魅せられていた。
 淡路島で生まれ育った僕だけれど、島の美しさ厳しさ、そしてそこから与えられる大きな感動を、一度も知らずにいた。佐渡では島が島であり一国の独立した風格があった。
 毎日、朝起きては天を仰ぐ。昼も、夜も。雲の流れを眺め風を読み、海の潮を見る。太陽の輝き、月の明るさ、星たちのざわめきを聴く。虫や鳥の声を聞き、野の草木、花の香りを嗅ぐ。
 そんなことが太鼓を叩くことと、どれほどの関わりがあるのかは判らないけれど、後にも先にも、佐渡での入座三ヶ月は、振り返れば黄金の期間だった。三ヶ月後、メンバーは佐渡に帰ってきて、本当の鬼太鼓座の生活が始まった。

 そして四年が過ぎ、鼓童が旗揚げ、再び八年が過ぎて僕は佐渡を離れる。
 この時、グループを離れた大きな原因の一つが、旅の多さにあった。十年以上もそこで過ごしてしまえば、当初憧れだった海外公演も、多すぎれば飽和状態、旅は嫌いではないと今でも思うが、集団での行動は、限界がある。その限界が僕に見えた。
 太鼓から離れ、四年間の中国留学から帰国した後、何をしてよいのやら自分にも判らず東京で模索していた時、その一つの方向に誘い声を掛けてくれたのは、平沼仁一(東京打撃団代表)だ。
 彼も同じように鬼太鼓座・鼓童を、僕とは違う制作の立場から過ごした後、東京で独立していた。
 佐渡へ渡った時のように生活が突然変わったわけではない。僕は、日中留学協会というところでアルバイトをしながら、徐々に徐々に太鼓の世界に戻っていった。

 東京打撃団が結成された95年7月にも、それで食えるようになったわけではない。この年は、渋谷ジァンジァンで第一回の『富田和明 参上 太鼓物語』も始まり、太鼓打ちで食ってゆく覚悟を決めた年だった。
 それから6年半が過ぎる。

 打撃団が軌道に乗り始めた時、僕の中では再び、鼓童とはまた違うグループの限界が見え始めた。
 グループの行動に自分を合わせることができなくなってきたのだ。それと、いつまでもグループの名前の中で仕事をしていると、自分の名前でする仕事が充分に伸びていかないし、社会に対しての発言も自由には出来ない。
 今年僕は45歳になる。独立するのに早い年齢ではない。太鼓の世界ではたぶん遅い独立だろう。むしろ遅すぎると言う人の方が多いだろう。でも、僕にとっては今しかない。今、こうならざるを得なかった自分がここにいる。
 何歳でも思い立ったら、その時が、絶好のチャンスと、自分に呪文をかける。
 今年から五年間のうちに次の自分・『太鼓打ち 富田和明』が見えてくるように、ゆっくりと焦らずに進みたい。

 

※上写真は、富田が島に渡って四週間目、二度目のフルマラソンを走る朝に/新潟県真野町大小・佐渡國鬼太鼓座玄関前にて 中央・富田、右・山野 1977年10月末頃 写真提供/山野實

※ 打組からのお年玉として、他にも20歳の富田写真をネットで公開しております。 興味のある方はこちらをご覧下さい。自分で見ても別人としか思えません。

※1月12日の東京打撃団・ルネ小平公演をもちまして、打撃団を退団しましたが、今後はゲストとして出演することがあるかもしれません。但し、これからはメンバーとしてではなく、一太鼓打ちとしてのゲスト出演です。打撃団事務所から声を掛けて頂きましたら、その都度考えまして、ご返答させて頂くことにしております。

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インターネット版 『月刊・打組』2002年 1月号 No.72

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