年が明けて、静かな正月だった。何処に出かける予定もなく家で過ごした。
今年は、実は去年の秋に行うのが時期的には正しかったのだけれど遅れてしまった、 太鼓生活25周年記念コンサートが七月に開かれる。 もう今から、それが今年の中心行事になっている。
佐渡島に渡った20才の秋、自分が太鼓打ちになるという自覚はまだなかった。
「この太鼓を早く叩けるようになりたい」「太鼓を叩いて世界を回りたい」「舞台の中心に立ちたい」
などという具体的な願望を胸に抱き、実現に向かって日々を過ごしていただけだ。
その先に、必ず自分のやりたいことが見つかるだろう、と信じていた。
当時の佐渡國鬼太鼓座では、太鼓を叩くことと同じように、いやそれ以上に走ることがより大きな課題になっていた。
走るのが好きであるはずのない僕だったが、走ることを受け入れたのはなぜだったのだろう‥‥‥。
一つは、自分が知らない世界への興味だったろうか。
走ることも、太鼓を叩くことも、生活することも、全部知らない世界。
それは未知のものに対する憧れだったのだろう。
自然の中での集団生活に太鼓三昧、個人で金銭を持たず、代価を求めない。毎日が未知に溢れていた。
グループが鼓童になって初めて給料を貰った。
あの頃は、お金のことは深く考えることもなく過ごしていた。
青臭いと言われれば、正にその通りだったろう。
寝るところがあって、たらふく食べて、楽しく旅ができれば、 そして喜んで受け入れてくださるお客様が、世界中にいらっしゃるのであれば、
それが幸せだった。それで満足だった。そう思うのが当然のことだろう。
しかし、それが10年を過ぎた頃、疑問を持ったことも、当然の事と言える。
太鼓生活から離れようと中国へ渡り、数年を過ごし、日本へ帰国した年から数えても、10年が過ぎた。
二年ほど手探りの時期を経てまた太鼓に関わりを持った事は、20才の秋の選択とは明らかに違う。
喰えなくても、これで生活していこうという覚悟の選択だ。
25年前は、嫌になったらいつでも止めようと思って始めたから、そこが違う。
太鼓を叩くことが嫌いではない。たぶんすごく好き。
でもただ「好き」というのでは、僕より太鼓熱が高いだろうなと思われる人はたくさんいる。
そういう人たちは「もうホントに好きなんです」と言う。
「こいつは太鼓バカなんですよ。時間があれば毎日何時間でも叩いていますよ」 と隣の人に言われてまんざらでもないように笑っている。
でも今の僕は‥‥‥。
「できればあんまり叩きたくない、すごく好き」だ。いつも一緒にいても、距離は持っていたい。
集団でやるということに対しても、それは時々でいい。
孤独であるとも言えるが、でもそれも嫌いではない。
こんな人間がこれからも太鼓打ちとして生活してゆけるのか?
ただ、僕は太鼓という楽器があるから、社会の一員として認められている。
太鼓がなければ何をして過ごしてきただろう‥‥‥。
いまちょっと考えても想像もつかないくらいに、太鼓と過ごしてきたのかな。意識の中で。
自覚がなくても、実はしがみついて来た、のかもしれない。
鼓童時代に斎藤栄一から付けられた名前が「富田玉砕」。
後先考えずに全力でぶつかっていたあの頃。
玉砕すればそれでヨシ、と考えていた。それで玉砕して一旦は太鼓から離れ、また帰ってきた。
もうこの道を歩んでいく。このまま。
25周年記念コンサートのタイトルを考えていた時、
相談していた平沼仁一から「おめでとう!オレ」というのはどうだ?と言葉が出た。
独り相撲を取り続けてきたように錯覚し、世間知らずな僕に、ぴったりだと思った。
周りの声援に盛り立てられなければ何もできないこの世界。
一人の太鼓打ちが生き続けられた事に、皆さまに感謝しながら、敢えて言おう。
おめでとう!オレ
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