インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

2003年 新年号 No.82(2月12日 発行)

このページはほぼ毎月更新されます。年10回の発行

オリジナル版御希望の方は『月刊・打組』についてをご覧下さい


月遅れのご挨拶

皆さまにとって恵みの一年となりますように‥‥

2月1日 旧正月

 

 年が明けて、静かな正月だった。何処に出かける予定もなく家で過ごした。
 今年は、実は去年の秋に行うのが時期的には正しかったのだけれど遅れてしまった、 太鼓生活25周年記念コンサートが七月に開かれる。 もう今から、それが今年の中心行事になっている。

 佐渡島に渡った20才の秋、自分が太鼓打ちになるという自覚はまだなかった。
「この太鼓を早く叩けるようになりたい」「太鼓を叩いて世界を回りたい」「舞台の中心に立ちたい」
などという具体的な願望を胸に抱き、実現に向かって日々を過ごしていただけだ。
 その先に、必ず自分のやりたいことが見つかるだろう、と信じていた。

 当時の佐渡國鬼太鼓座では、太鼓を叩くことと同じように、いやそれ以上に走ることがより大きな課題になっていた。
 走るのが好きであるはずのない僕だったが、走ることを受け入れたのはなぜだったのだろう‥‥‥。
 一つは、自分が知らない世界への興味だったろうか。
 走ることも、太鼓を叩くことも、生活することも、全部知らない世界。
それは未知のものに対する憧れだったのだろう。
 自然の中での集団生活に太鼓三昧、個人で金銭を持たず、代価を求めない。毎日が未知に溢れていた。
 グループが鼓童になって初めて給料を貰った。
 あの頃は、お金のことは深く考えることもなく過ごしていた。
 青臭いと言われれば、正にその通りだったろう。
 寝るところがあって、たらふく食べて、楽しく旅ができれば、 そして喜んで受け入れてくださるお客様が、世界中にいらっしゃるのであれば、
それが幸せだった。それで満足だった。そう思うのが当然のことだろう。

 しかし、それが10年を過ぎた頃、疑問を持ったことも、当然の事と言える。
 太鼓生活から離れようと中国へ渡り、数年を過ごし、日本へ帰国した年から数えても、10年が過ぎた。
 二年ほど手探りの時期を経てまた太鼓に関わりを持った事は、20才の秋の選択とは明らかに違う。
 喰えなくても、これで生活していこうという覚悟の選択だ。
 25年前は、嫌になったらいつでも止めようと思って始めたから、そこが違う。
 太鼓を叩くことが嫌いではない。たぶんすごく好き。
 でもただ「好き」というのでは、僕より太鼓熱が高いだろうなと思われる人はたくさんいる。
 そういう人たちは「もうホントに好きなんです」と言う。
「こいつは太鼓バカなんですよ。時間があれば毎日何時間でも叩いていますよ」 と隣の人に言われてまんざらでもないように笑っている。
 でも今の僕は‥‥‥。
「できればあんまり叩きたくない、すごく好き」だ。いつも一緒にいても、距離は持っていたい。
 集団でやるということに対しても、それは時々でいい。
 孤独であるとも言えるが、でもそれも嫌いではない。
 こんな人間がこれからも太鼓打ちとして生活してゆけるのか?

 ただ、僕は太鼓という楽器があるから、社会の一員として認められている。
 太鼓がなければ何をして過ごしてきただろう‥‥‥。
 いまちょっと考えても想像もつかないくらいに、太鼓と過ごしてきたのかな。意識の中で。
 自覚がなくても、実はしがみついて来た、のかもしれない。
 鼓童時代に斎藤栄一から付けられた名前が「富田玉砕」。
 後先考えずに全力でぶつかっていたあの頃。
 玉砕すればそれでヨシ、と考えていた。それで玉砕して一旦は太鼓から離れ、また帰ってきた。
 もうこの道を歩んでいく。このまま。

 25周年記念コンサートのタイトルを考えていた時、
 相談していた平沼仁一から「おめでとう!オレ」というのはどうだ?と言葉が出た。
 独り相撲を取り続けてきたように錯覚し、世間知らずな僕に、ぴったりだと思った。
 周りの声援に盛り立てられなければ何もできないこの世界。
 一人の太鼓打ちが生き続けられた事に、皆さまに感謝しながら、敢えて言おう。
 おめでとう!オレ

 

 

春を待つ潮合い

2月8〜10日

 

■海南町の全長4キロにも渡る 大里松原海岸 Photo/富田

 徳島市から車で約二時間、左に太平洋を見ながら室戸岬方面に向かって走る。潮の香り一杯に包まれる海南町に行って来た。
 真冬の時期にも関わらず、常春の陽気だった。そこに行くのは二度目になるが、今回は地元太鼓グループに新曲を依頼され、その曲作りと指導の旅だ。
 去年の夏の阿波踊り体験から、すっかり阿波踊り狂いになっている僕だが、伝統のある素晴らしい囃子や踊りを目の当たりにして、また、違うものも作ってみたいという思いも沸々と湧いてきていた。
 僕は太鼓打ちなので、特に囃子に興味があったが、その中でも「オオド」または「大太鼓」と呼ばれる、肩から担いで胸の前で両面から叩く平太鼓に興味を持った。
 踊りの伴奏とは別の使い方が出来ないかと、もっとこの楽器が主になる曲があってもいいのではないかと思ったからだ。
 新紀撃02公演では、この太鼓を背中に担ぐという荒技の曲を作ったが、これは普通の方には、ちょっと簡単ではないだろう。ここは一般的な前に担ぐやりたかで、今全国各地で人気が定着しつつある桶胴隊のように、このオオド隊というようなものを作ってみたいと昨年から思っていた。
 そんなところに、海南太鼓のHさんから「自由に作って下さい」とお言葉を頂き、喜んで足を運んだという次第だ。
 とにかくこれが出来れば、全国初の試みになるはずだ。

 二日間の指導を終えての翌日、隣町の対岸に浮かぶ手羽島を、Hさんの案内で訪れた。
 定期船で牟岐港から約15分、人口180人弱。ゆっくり歩いて一時間もあれば一周できる島だ。商店が一軒、車は一台もない。僕は隠すまでもなく島好きだが、この頃島巡りの機会もなかった。前回海南を訪れた時から、この島が気になっていた。実はこの手羽島以外に、大島、津島というのも浮かんでいるがこれは無人島。手羽島から眺めると大島は、ひょっこりひょうたん島のように見える。
 この手羽島で何をしたのか?
 春の陽を浴び、風もなく、聞こえてくるのは潮騒だけ。男二人で山を歩き、白い灯台の立つ頂上広場で風に揺られ、ほんの小さな町並みを歩き、廃校となっている元小学校の校庭で腰を下ろし真っ青の空を眺め、海岸に出ては海を眺めた。それでもまだ時間はたっぷりとあった。そして何もすることがなかった。
 何もしない。何も考えない。
 優しそうなじいちゃん、ばあちゃん、そこで眼にする人々はみな良い人に思えた。時間に追われない、自然の中での暮らしがある。
 僕はたった半日だけ、そこで時間を過ごして帰ってきた。

■徳島県牟岐町 手羽島にて  Photo/富田 上から4枚目のみ 東谷氏撮影

 

みなさまのご意見、ご感想をぜひお寄せ下さい!

Copyright 1999-2003 Tomida Kazuaki. All rights reserved.

 


インターネット版 『月刊・打組』2003年 新年号 No.82

電網・打組、富田へのご意見、ご感想、ご質問は、

Eメール utigumi@tomida-net.com まで

メニューに戻る