石井眞木(いしい まき)さんが急逝された。
甲状腺未分化がんだったという。66歳、あまりに突然の死だった。
和太鼓の世界にスコアを持ちこみ、西洋音楽と言われる他楽器との融合を試みた作曲家は数多いが、眞木さんほどの骨太抱合、そして和太鼓の新世界を創造したと言える作曲家は他に知らず、追随を許さない勢いがあった。
僕と眞木さんとのお付き合いは鬼太鼓座・鼓童時代しかなく、昔の話で恐縮だがここに想い出すまま書いてみたい。
当時鬼太鼓座に入座して最初に行う稽古の一つに、眞木さん作曲「モノクローム」の練習があった。
稽古場の、冷たい床の上で睡魔に襲われながらも続けるピアニシモ。固い樫の木を細く先端まで削ったバチを両手に、テケテケテケテケ‥‥と時を忘れて永遠に呟くように叩き、また雷電のように鼓膜も破れるほどに叩きつける締め太鼓の練習。それが石井眞木の音楽世界との最初の出会いだ。
オーケストラと日本太鼓の為の曲「モノプリズム」の演奏に参加するようになってから、眞木さんとお会いするようになったが、「モノプリズム」はすでに完成されていた曲(僕が入座する一年前に初演された曲)なので、あまり大きな注意はなかったように記憶する。注意よりも、皆の気分を盛り上げ、気持ちを集中させようとする心遣いがあった。
『モノプリズム』
●初演 1976.7.25/バークシャー音楽祭・タングルウッド/指揮 小澤征爾/鬼太鼓座/ボストン交響楽団
●ヨーロッパ初演 1981.9.11/ベルリン芸術週間/ベルリン・フィルハーモニー・ホール/指揮 石井眞木/鼓童/ベルリン放送交響楽団
曲中の和太鼓の演奏部分だけを再構成したのが「モノクローム」
実物の眞木さんは、野生を感じさせる豪快な人物だ。
ひ弱な青白い顔をした精細すぎるような作曲家像とは異なり、いつも血色がよく、ビールを飲み、肉をむさぼり食い、常に好奇心にあふれた目を輝かせ、ヒゲをたくわえ波型に流れる頭髪はまさにタテガミ、その相はライオンのようだった。話しかけるといつも笑顔だったが、怒ると本物のように吼える。
僕たちが叱られたという想い出は希薄だが、鼓童でベルリンを訪れ、そのリハーサル会場などで、現地のスタッフとよくトラブルが起こる。 その時の激しい怒り方が、血管がはち切れ頭から湯気が立ち上っている様そのものだった。
仁王像のように怒っておいて、僕たちの方を振り返っては、にっこり笑ってウインクする。
「こっちではこのくらい言っておかないと仕事をやってくれないのさ」という合図のようだった。怒るのもプロデューサーの仕事のうちということだろう。
またそれは、かの地でいかに眞木さんがスタッフと信頼関係を築いていたかという表れでもある。日本で同じ事をやる場合、二度とそのホールで仕事が出来ないことを覚悟しなくてはならない。それにも驚いた(当時眞木さんはベルリン在住)。
元々感情激高型だと思うが、怒ってもさっぱりしていて嫌みがなかったし、喜ぶ時の表情は満面の笑みを浮かべた子供のようであった。
鼓童になってまだ年月も浅かった頃、眞木さんが企画した音楽祭がベルリンであり、僕たちが長い海外旅巡業の末にベルリンに到着した時も、ものすごく喜んでくれた。
「もう着くかどうか心配してたんだよ。無事に着いただけでもう半分以上成功だ。さあ飯を喰いに行こう!」と元気がいい。
眞木さんには食欲が欠かせない。
公演の前日とか打ち上げで招待されるのがいつも焼き肉だったように思う。 「めし喰ってる?肉喰った?」 が挨拶のようでもあった。
これも肉食ライオンのイメージだが、お茶目な方で、どんな人に対しても気さくであった。若い新人プレイヤーに対しても、「ガンガンやってよ。肉食べないとダメダよ」と声をかける。
鼓童の誕生と共に作っていただいた曲が『入破(じゅは/初演、1981年ケルン国際パーカッションフェスティバル)』という。仏教用語からとったと聞いたたが「入って破る」、何とも意味深な言葉だ。
眞木さんは、音楽も肉体的だ。
静寂も爆発も肉体が表現しないといけない。まず形だ、表現だと、飛び跳ねながら叫んでいる。
スコアに並ぶ音符に命を与えるその課程が楽しかった。入破には暴力的とも言える破壊が音楽されている。音楽だからこそ統制もされている。恐ろしいくらいの叫びが表現されていた。
そこに若い僕たちも飛びついた。意味もなく、しかし不安な気持ち、誰かにぶつけたいけれどぶつけられなかったエネルギーが、その一時の音楽を通して発散された。
入破の入口は、耳を塞ぎたくなるほどの蝉の慟哭から始まり、息も詰まるほどの緊張と静寂、そして最後の爆発破壊へと続き、クライマックスは叫ぶ。こんなに過激な生音楽はないと思う。しかもそれが音楽となっているところが石井眞木であり、鼓童だった。モノクロームは他の音楽家も演奏したが、入破は、それがあっただろうか?僕は知らない。
ジャンプしては飛び膝蹴りに、一度太鼓から離れては助走を付けまたタックルする。頭突きも按摩も涎垂れ流しも雄叫びもオーケーだった。
東ベルリンで演奏された時の、観客の驚きを今でも肌で想い出す。刺すような驚きの視線だった。そんな世界を作り得た過激な作曲家だった。 激しさを表現するには、優しさと静けさをいかに表現できるかにかかっている。眞木さんはその両極の世界に誘い込む魔術師のようだった。
入破の後には、『組曲・輝夜姫(かぐやひめ)』がある。
初演の日記を部屋で探してみた。
1984年5月13日、「ベルリンの長い一日 ベルリンにかぐや姫が舞いおりた夜」 とタイトルまで付けて書かれている。以下はその日記。
石井さんとベルリンのパーカッションの人たちとKODOの三つの体がぶつかって生み落とされた世界だ。
ベルリンは、こういう音楽を生む不思議な場所だ。例えばこれが、東京で佐渡でどのくらい受け入れられるか?ヨーロッパ全体が今、東洋に対する憧憬、興味が一杯だが、特にここベルリンで強く「秘めたる東」になる。
僕は現在(いま)ここに住んでいる人々の感覚に活かされている。
これはベルリンだからできたんじゃないだろうか? これが実際の東洋、日本に来てしまうと逆に「憧れのヨーロッパ」となってしまって、こういう舞台が作られるものか疑問に思う。
石井眞木氏は、机の上で音符を並べるだけの作曲家ではない。
練習の段階でどんどん切ったり、くっつけたりする。譜面に書かれていない音や、奏者の動きなどを特に大切にしている人で、観せることを絶えず意識している。
「モノクローム」「入破」ときて三本目がこの「輝夜姫」だが、入破の練習を始めた時以上に輝夜姫の練習の段階では、果たしてこれが曲というものになって、人に聞いてもらえるものになるのだろうか?という想いで一杯だった。
それ程、曲自体が一歩踏み違えば滅茶苦茶なものになるものだと思えた。
時計の針は5月14日の午前零時半を過ぎた。
もう正にいつ天から迎えが来て輝夜姫が月に帰っていってもおかしくない時間になった。
ヨーロッパ最大といわれるベルリンのドイツオペラ劇場満員のお客さん。人で埋まっている。客席の明かりが落ちて舞台の上は青白く月に照り出されたようになった。空気も止まっているようだ。そして曲は始まった。ベルリンのお客さんの心の中にある日本への憧れが、かぐや姫をこの舞台の上に呼んでしまった。
作曲者、奏者だけではかぐや姫を登場させるところまでいかなかったと思う。そういう意味でのお客さんの力は大きい。
朝の九時に劇場に入ってリハーサルの準備をした僕たちにとってこの日は長い一日となった。
組曲「輝夜姫」が終わった後、鼓童だけの公演が続き、長いアンコールの拍手。最後の三本締めで手締めをやったのが二時半。着替えて道具をトラックに積み込み外へ出ると、犬を連れて朝の散歩をしている人がいる。四時半だ。
その後、パーティーに参加して、この公演を準備して下さった方たちと名残を惜しんだ。
ベルリンオペラフィルのパーカショニストとKODOの為に石井眞木氏が書かれたこの輝夜姫は、「飛来・宴・戦い・飛天」の四部で構成され、舞台上手に和太鼓群、下手に西洋太鼓群、中央に大太鼓が置かれ舞台はあふれんばかりの太鼓の山だ。
DEUTSCHE OPER BERLIN
PERCUSSION
この公演の企画も石井眞木さんだ。
企画して資金も集め出演(指揮)もする。果てしないエネルギーの塊だった。
これも、数多く眞木さんが企画した公演の中のただ一つの企画に過ぎないが、輝夜姫初演の忘れられない一夜だ。
この日の公演チラシを見ると開演時間が夜の10時30分になっている。ヨーロッパでは可能かもしれないが、日本では大晦日以外の時期に信じられない公演である。
輝夜姫の演奏コンサートはこの公演後も5月24日まで続く。
場所がオランダに移り、共演者がサークルアンサンブルに変わっただけ。眞木さんと一緒に旅をしたのは珍しい。
5月24日、ロッテルダム・ホール4
アムス(テルダム)から一時間、かぐや姫のラストコンサートになるが、これが完全な倉庫。
港近く、お客さん地べたに座るか立ったまま、狭い倉庫に驚く人数が入った。 信じられない。こんなにどこから来たのか?若い人ばかり。
終わってワインで乾杯!集合写真
帰り道、石井さんとおおいに話す。
いったい僕は何を話しながら帰ったんだろう。今は何も思い出せない。
眞木さんの姿を最後に目にしたのは、昨年の第一回、東京国際和太鼓コンテスト会場でだった。
大太鼓の課題曲が眞木さん作曲で審査委員でもあったから、ホール客席中央に座っておられた。
大太鼓部門に参加した11人の演奏を聞き終えて、優勝は佐藤健作以外に考えられないと確信した僕だったが、審査員の皆さんの点数は違った。
課題曲は難曲だが、それは演者に対する挑戦状だったろう。普通に叩いても何にも面白くない。技と力を持った筈の参加者たちの、曲に対する苦悶が伝わってばかりでは息苦しい。
もっと音符の世界から肉体的に超訳して、「えっ?これがオレの書いた曲だったのか?」と眞木さんを仰天させるものが欲しかったのだろうと、今では思う。
作曲家を超えた偉大な音楽家のニンマリ顔を、今後もう見られないと思うのが残念だ。合掌。
■石井眞木氏の情報をインターネットで調べてみると、太鼓に関する記述が少ない。石井氏の活動全体から見れば、和太鼓との関わりはほんの一部らしい。それほど活動の幅が多岐に渡っていたということであり、そのことに驚かされる。また余談だが、お父様の石井漠氏は、日本のモダンダンスの創始者であり、日本の伝統芸能に対しても研究熱心で、石川県の御陣乗太鼓や、佐渡の鬼太鼓に影響を与えたと言われている。
■写真は、アサヒコム オフタイム音楽(石井眞木・記事)より
http://www.asahi.com/offtime/music/TKY200304080117.html
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