太鼓生活二十五年って、短かったのか長かったのか、本人にはやっぱしわかりませ〜ん。
しかしこれを節目と考えて何かするのか、何もしないのか‥‥。
別に誰からも、何かやってほしいなんて頼まれたことはないが、いいではないか。やりたいのか、やる気があるのかという、自分への問い掛けなのだ。
そのお告げは去年の六月、淡路島から長野県にハイエースを運転しながら走る道中、突然に舞い降りた。
「やろう。やらなければ。やりたい!」
の、「やる」三段活用的発作が僕を襲う。
どうやるのか?何をやりたいのか?
25年の集大成となるべき過去から現在までの僕を太鼓で語るには‥‥。今身近に活動していることの紹介もしたいけれど、この時だからこそできること、したいことは何だ?それはやっぱり出発点に戻ることだが、自分の原点とは?今夜の晩飯は何を食べたいのか?
車は名神を過ぎ、中央自動車道を北上していた。
鼓童の出発点でもあった近藤克次と藤本吉利そして僕の三人揃い踏みと、プラス、ピアノの山下洋輔。この御三人のゲストを迎えて記念コンサートを開くことができれば‥‥。信州の心地よい風を切りながら駆ける車の中で、一人夢が膨らみ腹を決めた。
長野のホテルに着いて、すぐアートウィルの平沼仁一に協力お願いの電話を入れる。これくらいの規模になるととても一人では出来ない。やはり頼るべきは古巣の友である。こうして、実現させるべく準備がこの日から始まった。
ゲストのスケジュールを照らし合わせると、2003年の七月五日。この日しかないと(本当の25周年記念日は昨年の10月1日だったが)、まず日程だけを押さえたのが昨年の七月五日だった。
それから一年間、途中に克次さんの予定変更がありゲストは叶わなくなったが、洋輔さんと吉利さんの二大ゲストをお迎えし、この日のコンサートの幕が切って落とされることとなった。
開場後の、開演を待つ舞台裏で、衣裳の鴇田章さんからプレゼントされた燕尾服?を身にまとうオレ。胸にはバラの花が一輪。これが太鼓打ちの正装か!
この時、かつてないほどの緊張感が僕を襲っていた。それは緞帳替わりの紅白幕が波形を作って舞台に雪崩落ちた瞬間、頂点に達した。
この原因は、カメリアホールにお越しいただいた皆様にはお判りでしょうが、幕開きのピアノにありました(ピアノに関しては色々と書きたいことがありますが、今はまだ時期早計。いつかゆっくりと‥‥)。
弾き終わって、次にどうしたらよいものやら、何をするんだったっけ?と一瞬、顔面蒼白記憶喪失状態を味わうが、温かいお客様の思いも掛けない大喝采に励まされ意識が戻る。ここは体が動いた。
その後、熊谷修宏さんとの『アフリカン焼きそば』、佐藤健作さんとの『花花』、渡辺真知子さんとの『目が覚めたらタイコだったボク』を、次々とこなしていく中で、「そうそうこれは太鼓のコンサートなんだから‥‥」と徐々に落ち着きを取り戻そうとしていた。
ここまで来て藤本吉利さんの登場となる。
吉利さんには、十八番の『赤垣源蔵』(縮小版)を歌っていただき、その歌の終わりに合わせるように僕が着替えて下手から登場する。
「よしかずさ〜ん!」
(しかし振り向いた吉利さんはまだ歌の世界に入ったまま)
「げんぞ〜か!」
「和明ですよ!」
でオチ(なんです)。ここで吉利さんの顔を見た時、僕はホッとした。
もうここからはどうなっても大丈夫だろうという、安心感がそうさせた。
吉利さんはそういう人なのだ。何もしなくて、そこに立っているだけで、すでに成り立っている、そんな感じ。年を重ねるっていうのも悪くないな、って先輩の姿を見ながら思った。
そこからはのんびりと、しかし楽しい緊張感と共にコンサートは進行した。
1977年10月、僕が佐渡國鬼太鼓座の門を叩き生活を始めた時、メンバーのほとんどはヨーロッパ公演に出かけていて、僕は数名の座員と共に留守番をしていた。留守番生活一ヶ月を過ぎたところで、そこに吉利さんが加わったのだ。
メンバーが帰国するまでの二ヶ月、僕は吉利さんから太鼓を習い、走り方を教わった。そんな兄貴的存在だった。
その時に教わった、『西三河の鬼太鼓』をまず舞台で叩く。この太鼓が鬼太鼓座で習った最初の曲だと思う。
続いて、これも吉利さんから昔に習った小倉祇園太鼓を、今回の公演の為に二人で佐渡でアレンジして作った、『御蔵祇園太鼓』を叩く。
御蔵(おくら)というのは、その昔佐渡で稽古はしていたものの、これまで舞台に上げていなかったということでこの名前をつけた。ここで第一部を終える。
二部は、僕の猿狂言で休憩の看板を片付け、山下洋輔さんの登場。まずはソロで一曲。
そこに『ういろう打ち』でなだれ込む。これは熊谷と二人で叩いてきたものだが、ピアノと太鼓の曲に変えた。
この日本語のリズムに、洋輔さんはリハーサルの時からずいぶんと興味津々でいらっしゃいました。
続いて『石敢當』。
沖縄の風吹き抜ける中でこの曲をスタートさせたかった。いつかこんなふうに横打ちでピアノに絡みたかった。そんな僕の願いが、この日、叶った。
洋輔さんと初めてジョイントしたのは1984年、鼓童時代でのステージ(この時が、和太鼓とピアノの世界初セッション)だったが、あの頃はグループでのぶつかり合い。ソロ対ソロの世界なんておこがましくも晴れがましく、また不安もあったが、舞台の上でしっかりと見つめ合う二人。あの洋輔さんのつぶらな瞳で見られると僕の全身のアドレナリンが、噴射した。この感覚だ。ある感覚が僕に蘇る。この時が一番の至福の時だったかもしれない。
この後、吉利さんが加わり三人でのメインイベント曲 ・三人囃子『三宅路姿』。
歌って叩いて踊って語る。山下洋輔的吉野川(阿波踊りの定番)をバックに僕と吉利さんが囃し、盛り上がりの沸点で隠し玉の「江戸っ子連三人娘」も登場し花を添えていただいた。
終わって、僕の歌と大太鼓。そして『25年後のオレへ』のメッセージを語り、最後は全員での『屋台囃子』!
昔の舞台では、必ず公演のラストに叩き続けた曲だったが、僕はそれをこの14年以上は叩いていなかった。これは鬼太鼓座・鼓童のものだと思っているので舞台では叩くつもりはなかったが、もう一度、この時にこそ叩いてみたいと思っていた。今でも忘れられない太鼓だ。
この曲間に洋輔さんの『佐渡おけさ』が鳴り響いた。
僕は背筋をピンと張り、腰を床に下ろし、太鼓の皮の中心を見つめている。視線の外には仲間が座っている。そしてカメリアホール満席のお客さまが一緒だ。
古くからの、また新しい、知り合いから、お世話になってきた人たち、ファンの方、ほとんど身内と言ってもいいくらいの熱い皆様大集合の一夜。もう二度とないだろうこんな夜。が、終わりの時を迎えようとしている。
背中を通して、また床を揺らせて、洋輔さんが弾くグランドピアノ全体のうた声が、鍵盤の上の指の動きや、ペダルを踏む足先の響きまでもが、僕の腰骨に背骨に伝わってきた。
僕が見つめる目の前の、ザラザラになった白い太鼓の面には、この25年間のさまざまな光景が映し出されては、消えてゆく。
太鼓と出会って、今日の日を迎えた
太鼓と出会って、あなたと出会えた
ピアノの音がさざ波のように引き、替わりに佐藤と熊谷が叩く締め太鼓の音が大きく迫る。その音に呼び込まれる形で、吉利さんの肩が腰が動き、僕の体も自然にその動きに続く。上半身がゆっくりと床に傾き、バチを握ったままのその両手が大きく開いて一瞬、舞台の空を見上げた。
ありがとう、あなたに
そして太鼓に
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