『富田和明参上 太鼓物語』

-語り和太鼓-

公演記録

●渋谷ジァンジァンは僕にとって夢の舞台だった。

●1995年5月、ソロとして再デビューする舞台にこれ以上の場所はないと思った。企画演出の平沼仁一は考えた。富田は多種のミュージシャンとジョイントして舞台を作るタイプではない、演劇性を取り入れた、語る太鼓打ちを目指すべきだと。そもそも僕は自分のことをミュージシャンなどと思っていない。語ることに憧れがあったがそう簡単にこれもできない。できないけれど、このジァンジァンの舞台で目指したいと思った。一人で「語る太鼓」が、ここでのテーマだ。

●太鼓の演奏もあるが、公演の半分以上は一人で喋る。それが太鼓物語の骨格だ。


青春旅立ち編

1995.5.22

太鼓を叩いて18年。中国留学を経て、今ふたたび舞台へ参上

あらためて打つことに対峙する人間と、いまそこに在る太鼓の物語

暗闇の中で鳴る太鼓、音はどこまでも続くが姿は見えない。太鼓が富田であり、富田が太鼓である紹介をして公演は始まる。淡路島を出て横浜に来た18歳の春、佐渡島に渡った20歳の秋、鬼太鼓座・鼓童の活動の中で旅をした国々の風景と自分の葛藤、ジァンジァンの舞台に立ち太鼓打ち再デビューを迎える日までを語る。

構成出演 富田和明  企画演出 平沼仁一  制作 渋谷ジァンジァン アートウィル  チラシデザイン 野村高志  チラシ写真 岩切等  衣裳 谷口佳織 

公演の三週間前からすべての仕事をなくし、この日の準備期間とした。他のことが手に付かなかった、というのが正直なところだ。時間を作ったけれど、内容はまったく固まらない。平沼と二人で千葉県富山町に合宿まで行った。平日の昼間、観光客の姿もない海辺はのどかだった。ただ富士山だけが海に浮かんで見えた。ジァンジァンの舞台で、一人で演奏できることは何なのか?何を語れるのか?手探りの毎日だった。公演の前日、鼓童時代に知り合った写真家・迫水正一さんの葬儀に参列した。迫水さんは富士を愛し、人を愛した方だった。

1989年8月以来、4年9ヶ月振りの太鼓舞台。ソロデビューということで鼓童時代のファンの方がたくさん駆けつけて下さった。語る太鼓、と事前にPRしていたつもりだが、そうは思わず普通の太鼓コンサートだと思い来た方が多い気がした。初めての試みなので戸惑ったのだろうか「もっと太鼓を叩いて欲しかった」「話が長すぎた」の声を後で多く聞いた。

再演 1995.6.17 

兵庫県三田市・フラワータウン市民センターホール

鬼太鼓座時代からのお付き合い、陶芸作家・芦澤龍夫さんが声を掛けて下さり、その紹介で蔵保敦子さんが私のことを何も知らないのに三田市に呼んで下さった。主催協力していただいた皆さんは、阪神淡路大震災で集まったボランティアグループの面々。まだ震災の爪痕が生々しかった。


中国大陸編

1996.2.1

語って半畳、叩いて壱畳。五尺五寸の身丈に吹き込む大陸の風

一人の男が挑む、太鼓ワールド。今回は待望の中国大陸編。萬事如意

この日が春節(旧正月)だった。北京での爆竹の思い出から始まり、陜西省安塞県にたどり着く。黄土高原に広がる腰鼓の響きと人々の暮らしを語る。一時間は語りのみの『安塞腰鼓』。後半一時間は佐藤と中国を叩く。後にお馴染みの演目となる『花花(ホアホア)』がこの時に初登場。

構成・語り・演奏 富田和明  演奏 佐藤健作  企画演出 平沼仁一  制作 渋谷ジァンジァン アートウィル  チラシデザイン 野村高志  チラシ写真 岩切等  衣裳 谷口佳織  年画幕(トップページ写真)制作 金石拓男

北京留学時代の友人で美術家の金石さんに、特大の可愛い年画を書いていただき舞台中央に飾る。中国大陸で感銘を受けた太鼓はいろいろあったが、今回は安塞腰鼓、一本に絞って話をした。黄土高原で暮らす人々の生活は、厳しくまた懐かしく今でも思い出される。開場BGMには、貴州省で録音した葬式の行進音楽や少数民族地区での歓迎宴会の模様を流した。


中国朝鮮族編

1996.9.3

たおやかに流れる時間、呼吸する大地

一年間暮らした北朝鮮との国境の都・延吉を舞台に祭(クサム)が始まる

9月3日(朝鮮語で「クサム」と呼ぶ)は延辺朝鮮族自治州成立記念日で、一年で一番盛大な祭の日だ。僕の留学はこの日から始まり、一年後のこの日でほとんどが終わる。延辺のこの地は、今の多くの日本人にとっては忘れられた、気にも留められない場所だが、実は日本と深く結びついている時代があった。僕に朝鮮語を教えてくれた先生、下宿のアボヂ(お父さん)、オモニ(お母さん)を通して知る過去と現在の息吹。

構成・語り・演奏・現地写真 富田和明  演奏 村山二朗 佐藤健作  企画演出 平沼仁一  制作 渋谷ジァンジァン アートウィル  チラシデザイン 野村高志  チラシ写真 岩切等

現地で一年間に撮りためたスライド写真を埋もれたままにしておくのはもったいないので、これを語りと演奏の間の、バックで映写することにした。スクリーンとなるのは、大太鼓に被せた山形の白布。これは朝鮮の人々にとっての神の山・白頭山(ペクドゥサン)を表しているつもりだった。開場BGMには、この年の8月に録音した延辺人民ラジオ局放送番組を流した。

そろそろ『太鼓物語』公演の意味が知られてきたようで、これは話が中心だと納得して(あきらめて?)来ていただいている客席の雰囲気を感じた。理解して戴くには続けるしかない。


三宅?誕生?

1997.10.1

舞台は東京都・三宅島

そこに地面を這うように、大海に泳ぐように、打ち込む太鼓があった

たった一晩の出会いが、一人の太鼓打ちを変えた

あれから十五年、ふたたび訪れた南の島で見たものは・・・

一部=三宅太鼓の誕生 過去にさんざん三宅を叩いていながら歴史らしきことはほとんど知らなかった。15年振りに島を訪れて尋ねることからはじめた。二部=鼓童三宅の誕生 どうして鼓童は三宅を叩くことになったのか、ハワイ島での初演の模様を語る 三部=富田三宅の誕生 現在、富田は三宅とどう向き合おうとしているのかを叩いた。

構成出演 富田和明  企画演出 平沼仁一  演奏協力 佐藤健作  制作 渋谷ジァンジァン アートウィル  チラシデザイン 野村高志  チラシ写真 岩切等  取材協力 津村明男

自分の中にあったこれまでの太鼓物語は、三回でほぼ語った気がして、その後はどうしようかと考えたが、これはまず自分を変えた三宅しかないだろうと、この話に決めた。取材をしてその内容と、現在の自分をつなげる構成が、この第四話から始まる。1997.6.12〜16、三宅島の津村さん宅を宿に取材し、その後は国立国会図書館に通い疑問点の解消に務める。開場BGMは、野鳥の宝庫と唱われる三宅島大路池付近で録音されたもの。


祇園?ばなし?

1999.2.9

悠久の都・京都 祇園

全国ほとんどの祭に影響を与えているといわれる

祇園祭は日本の祭の本家本元なのか、富田は日本の何なのか

京都・大腹・産前音、囃子に憑かれた男が一人

日本の祭の原点とも言われる祇園祭がどうして誕生したのか、京都の街はどうして誕生したのか、なぜ山城の地に都を造らなければならなかったのか、謎だらけの祇園囃子の誕生を時代を遡り、そしてパリ、アフリカと駆けめぐりながら富田流に推察する。最後の演奏は、もし「今、祇園囃子が作られるとしたら」と考え三人で演奏した。

構成・語り・演奏 富田和明  演奏 村山二朗 佐藤健作  企画演出 平沼仁一  制作 渋谷ジァンジァン アートウィル  チラシデザイン 野村高志  チラシ写真 岩切等  取材協力 田村利雄  小道具協力 日本民族舞踊研究所

祇園祭は日本の祭と太鼓の大テーマなので、一回で語り終えることができません。15年後に続編を語ることにしました。15年後とは、桓武天皇が平安京に遷都した年齢に僕がなります。京都の田村利雄さん宅を根城に夏と冬に短期取材し、その他は国立国会図書館に通った。


●2000年春、ジァンジァン閉館のため『富田和明参上 太鼓物語』も第五話をもちまして、渋谷ジァンジァン開催では最終回となりました。

●次回・第六話は、秩父屋台囃子をテーマに予定。会場、日程は未定。


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