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富田和明的個人通信

月刊・打組

リクエスト公開 No.14(2000.8.20 発行)

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三宅島再訪』   

1997年 6月12〜16日 

 


※周囲約35キロのほぼ円形、高くそびえる山もなく、愛くるしい乳房を想わせる

 朝の4時50分、昔と変わらない「すとれちあ丸」が阿古港に着いた。一人の男が僕を迎える為にそこに立っていた。一瞬だけだが、この人だったか?と確認する時間が必要だった。何しろずいぶん久しぶりなことだ。しかし、その後は親戚の兄貴に会いに来たような雰囲気になった。考えてみればおかしなことかもしれない。前に一度お会いしただけなのにである。これも太鼓のなせる縁の力というものだろう。この人が津村明男さんだ。
 津村さんと鼓童が会っていなかったら、今までさんざん舞台で叩いてきた「三宅」も存在せず、たぶん僕という存在も今とは、かなり違ったものになっていたと思う。伝統というのは長い歴史の中で連綿と受け継がれてきたものだが、その時代時代の人々が造ってきたものだ。常に現在の風をそこに吹き込み、その肉体を通して創造してきた人間がいなければ「伝統」は消えてしまう。僕は「三宅」が生まれたこの島を訪ね、この人に会いに来た。そこで島の空気をゆっくりと呼吸した。


※三宅神着木遣り太鼓の指導をする津村明男さん(写真右)

 

渋谷ジァンジァン・ソロ公演

「富田和明参上 太鼓物語」Vol.4 

?三宅?誕生』ご案内

 宣伝文  

1997年  

 

 自分が40歳を迎えた今年、何か記念になる旅をしたいと考え、行ったのが三宅島でした。前にこの島を訪れたのは確か1982年の冬2月ですから、15年以上も訪ねていませんでした。
 15年前のその頃、佐渡国鬼太鼓座から鼓童という名前になったものの、旗揚げの11人からまた数人がグループを離れ、このままの状態では舞台公演も難しいと考え、半年間の充電期間を過ごしていたのです。名前が変わっただけで舞台の内容がすべて同じでは新しいグループの誕生とも言いがたい。僕たちは新しい演目となる素材を求めていました。八丈島に渡ったのもそのためで、八丈で数日を過ごした後、帰りに三宅島も通るからちょっと寄ってみようということで三宅に初めて行きました。
 荒れた航海の後フラフラになった体で遅い午後に着き、その日の夜、海岸端にあるテングサ小屋で島の太鼓を見ました。今までに見たこともない太鼓を打つスタイルに僕たちは感動し、夢中で習いました。でも実際には2時間ほどの出来事で、翌日にはもう島を離れたのです。
 佐渡に帰ってから僕たちはその太鼓をアレンジして「三宅」という曲を作りました。そしてこれはそのグループの誕生になくてはならない太鼓となったのですが、この時僕は25歳、20歳から太鼓を本格的に始めたとはいえ、これまで自分の太鼓と呼べるものに出会ってはいませんでした。この「三宅」と出会ったことが富田という太鼓打ちをも誕生させたのです。
 しかしこれまで、三宅太鼓のルーツを何一つ知らなかった。この名曲がいつどのようにして誕生し現在に至ったのか、それを探るのが今回の旅の目的となりました。
 ジァンジァン・ソロ公演第四話『?三宅?誕生』は、第一部三宅太鼓の誕生、第二部鼓童三宅の誕生、第三部富田三宅の誕生と、三部三宅三昧構成で、三宅な一夜をお送りいたします。どうぞ皆様、この機会にぜひお越し下さい。富田の中の三宅がすべて語られます。※このコンサートは、終了しています

※島一周マラソンの後、げっそりと痩せた(どこが?)島の青年のような私


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