合言葉は “マタブンカイビーチ”
ハンチョウ(河内敏夫)が最後に過ごした海で
1月1日
マニラ行きフィリピンエアラインに僕と平沼仁一が乗り込んだのは昨年(1995年)の暮れ、12月29日のことだった。
二人は着膨れした体を持て余しながら、現地時間の昼下がり、初夏の香りがするマニラ空港に到着した。 パスポートチェックは簡単に終わったものの、荷物が出てこない。 ベルトコンベアから次々に流れてくるのは、カップヌードルの箱詰めケースばかりで、それも全部シーフードヌードルなのだ。 これでは日清食品の工場ではないか。その他にはテレビ、炊飯器、洗濯機にステンレスの大型流し台まで涜れて来る。 スーツケースなどほとんどない。出稼ぎやら結婚で海外に出ていた人々は、コンテナ一台分くらいの荷物を平気で荷車に移しかえている。僕の尺六寸桶太鼓が出てきたのは、一時間が過ぎたところだった。
空港タクシー乗り場のところで僕たちを迎えてくれたのは、マニラ在住の照明家「松本直み」さんである。 直みさんとは、昨年2月に行なわれた舞踏公演『沈める瀧』以来の付き合いで(直みさんはこの公演の照明を担当)、直みさんがフィリピンに住んでいると知った僕と平沼が、 「ハンチョウ(河内敏夫)が最後に訪ねたマタプンカイビーチにどうしても行ってみたい」 「元旦に行って、太鼓を叩いて追悼をしたい」と話し、 「いい話しじやないの、ぜひやりましょう」 と、直みさんはハンチョウのことを何も知らなかったのに、快く承諾して僕たちのマタブンカイ行きのアレンジをすべてやってくれたのである。
今から10年前の1986年12月26日、大阪近鉄劇場での公演がその年の鼓童ツアーの千秋楽だった。 僕はこの12月公演ツアーが始まる前に、「20代最後のカをすべて出しきる」と皆に宣言して、その言葉通りに出し切った、出し切れたと思えた充実感に充たされた舞台だった。この時の公演が僕の鼓童での絶頂期であったと思う。 劇場近くの飲み屋で打ち上げをした後、皆で店の外へ出た。ハンチョウも上機嫌で、 「僕はこれから夜行で東京に戻るから」 と言って、そこで笑顔で別れた。 その夜から、僕たちはお正月休みで解散となったのだ。 ハンチョウは昼間の時間を有効に使えるという目的だけではなく、夜行バスや夜行列車に乗るのがとても好きな人間で、小学校の時から列車の時刻表を枕に寝ていたと言うくらい旅が好きな人だった。 翌日27日東京に戻っていくつかの仕事をこなした後も、じっとはしていなかったようだ。その後、韓国のソウルに飛んでサムルノリのキムドクスと打ち合わせをし、そして30日にはフィリピンに入国している。
年が明けた正月4日、僕たちは佐渡に集合した。 毎年正月の休み明けには佐渡に戻らずそのままグループを離れていくメンバーが必ず一人や二人いたが、まさかハンチョウがこの時、帰らぬ人となっていたなんて絶対に信じられないことだった、それもフィリピンで水死とは‥‥。 「なぜフィリピンなのか?」 というのが本当に不思議なことだった。
多少?の動揺があったものの決まっていた公演スケジュールはこなし、なんとか鼓童は前に進んでいった。 そして数年が過ぎ、それでも心と体の中にできた空虚感を埋められず、僕が鼓童を離れた直接の引き金になったが、ハンチョウの不在だった。 僕は中国に行き、また帰り、太鼓の世界に戻り、東京打撃団の創立に係わった。そして松本さんと出会えたことが何か意味を成しているように思えたのだ。 「フィリピンに行くには、このタイミングしかない。行ってみたい」 平沼と僕は何か強い引力に導かれているような気がしていた。
僕にとってフィリピンは初めての体験で、確かに人からは「正月でも夏だよ」と聞いてはいたものの、こんなに気候がよくて気分が良いところだとは想像できていなかった。 松本直みさんが苦労して作り上げた生活空間があったからこそ、マニラ滞在が快適に過ごせた訳であるけれど‥‥。 マタブンカイビーチヘは直みさんの友人で、フィリピン在住8年の上田敏博さんが案内してくれた。 マニラに住む人々にとって、一番近いリゾートビーチがマタブンカイだということで、ちょうど六本木で飲んでいる時に(私は六本木では飲めないが)、女の子から「夜明けの海を見たいわ」と言われた時に(私は言われたことがないが)車をブッ飛ばして行く湘南の海岸的ビーチになるようだった。 マニラから車で約3時間、正月休みで車の数がめっきり少なくなっていたという道路を走って、我々がマタブンカイに着いたのは大晦日の午後であった。
このビーチにはホテルが一軒しかないので、まずそこに行き、日本語よりタガログ語の方がうまいのではないかと思わせる上田さんが、 「9年前このホテルに泊まって、元旦の朝亡くなった日本人のことを、誰か今でも知っている人がいないか?」 とホテルのフロントに声をかけると、そこにいた全員が、 「髭をはやした日本人のことだな」 「それなら、知っている、知っている」 「あの時は大変だった。日本大使館から人が来て」 「元旦の午後1時過ぎに寂しそうに海に出ていくのを私は見た」 「いや楽しそうに海岸を歩いていた」 「彼は103号室に泊まっていた」 などと口々に言い、その地に着いた早々、多くのことが分かってしまった。
このホテルのプライベートビーチに出て海を眺めると、 「おおこれは羽茂の素浜から見た海ではないか」とか 「いやこれは真野の小立から見た真野湾と小佐渡ではないか」 と、なんとのう佐渡の海に似ているのであって、僕は胸の中で「そうか、そうか」と呟いていた。 ハンチョウもこの海を見ていたのだ。 夜、ハンチョウの話ばかりをして皆で酒を飲んだ。ここで僕たちは今年の正月を迎える。
元旦の昼下がり。 素晴らしい快晴で眩しい陽の光、午後の海は黄金のように輝いていた。 ハンチョウが海に向かったという午後1時、太鼓を叩き初め、みんなで沖に向かって海を歩き始めた。 知らないうちに我々『ハンチョウ追悼太鼓団』は一行7人に増えている(直みさんの友人やら運転手も参加したので)。 一旦腰近くまで海に浸かったかと思えば、また膝小僧までの深さになったりする完全に遠浅の海だ。 十分ほど沖に歩いた所で歩くのを止め、花、線香、お餅、日本酒などを海に流した。 そして僕と平沼を中心に、全員で代わる代わる太鼓を叩いた。笛で「お正月」と「年の初めに」を吹いた。そしてまた太鼓を叩きながら浜まで戻ってきた。 時計の針は40分をまわっていた。 海の水は温かくて、海の風も心地好い。 なんだか本当に気持ちの良いお正月で、あれからもう9年の時が過ぎたなんて信じられない。 ハンチョウが緑色のロヂャーズのショートパンツ一枚姿で、日焼けしていない白い上半身をあらわに、今にもゆっくり歩いて浜へ出てくるのではないかと、思わせた。
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photo/Matsumoto Naomi
僕が20歳の夏の終わりに佐渡の鬼太鼓座を訪ねた時から、すでにハンチョウは皆をまとめていた。 当時代表だった田耕(でん たがやす)さんは、ほとんど佐渡にいなかったからだ。 田さんから僕たちが独立するとほぼ決まった時、一人一人のメンバーと最後に田さんが面接をすることになって、先輩たちは「ここでまた田さんからもう一反撃あるのではないか」と恐れた。 田さんと二人きりになった時、僕も非常に緊張していたのだが、その時質問されたのは、 「本当に河内を中心にまとまってやっていけるのか?」 という一点のみだった。 「はい、やっていきます」と僕は答え、 「それならいいんだ」と田さんは言い、それだけで面接は終わった。
ハンチョウは、1970年佐渡で田耕が呼びかけた鬼太鼓座夏期学校に参加し、そのまま引き続き鬼太鼓座の創立に参加する。太鼓、三味線の演奏者としても舞台で活躍し、1981年に中心となって『鼓童』を旗揚げした。 小木町での鼓童村建設、夏のアースセレブレーション構想もハンチョウのカによるものだ。 ハンチョウの本名は「河内敏夫」だが、仲間内では「ハンチョウ」が愛称となっていて、僕もハンチョウとしか呼んだことがない。 ハンチョウに関する思い出は尽きず、でもマタブンカイに足を運べたことは本当によかった。 葬儀は終えていたけれど、最後のお別れをしていなかったように思えていたからだ。
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今回は、ハンチョウ最後の演出となった舞台・12月公演パンフレットの文章を紹介して終わりとします。 「今年の春、沖純・台湾を皮切りに、インドネシア・マレーシア・トルコなどアジアの国々を回った。欧米とは全く違った反応にとまどい、彼の地の芸能に大きな刺激を受けた。そこには、生きていることに深く結びついた芸能があった。そこには、音楽や演劇に分化する以前のエネルギーがあった。このエネルギーこそ、私達が日本の伝統芸能に見出したものではなかったか。それは日本固有のものではなく、形を変えて世界各地にもあったのだ。アジアの吹きだまり日本。日本はけっして単一民族国家ではない。日本の中にある異文化のせめぎあい、そこに生まれる激しいエネルギー。日本の芸能には、原初的なエネルギーが激しく燃えさかっている。今年の舞台では原点に帰り、このエネルギーにできる限り近づこう。アジアの旅から帰った時そう決意した。」 (1986年12月 河内敏夫 演出ノートより抜粋)
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photo/Tomida Kazuaki
インターネット版 『月刊・打組』 1996年 新年号 No.13
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