消えた日本海のうねり
輪島太鼓フェスティバルで御陣乗を聞く
1997年 2月19〜20日
いつ頃からこう考えることになったのか定かではないが、僕の頭の中の太鼓の世界では、 宮太鼓の面を伏せて上から叩く形を「御陣乗スタイル」、 四角台に乗せて両面から叩けば「八丈スタイル」、 乗せたまま動かしながら叩けば「小倉祇園スタイル」、 地面に置いて横から股を開いて叩けば「三宅スタイル」、 腰を下ろして正面から叩けば「秩父屋台囃子スタイル」、 などと太鼓のスタイルの分類が出来ている。
勿論その太鼓の同じ置き方で無尽蔵の太鼓の種類が実際には存在するのだろうが、例えば真ん中に太鼓を一台置いてそれを何人かで叩けば如何様(いかよう)の演出があったとしても、 「これは御陣乗スタイルだ」と呼んでしまうくらい有名になり、代表選手になっているのが御陣乗太鼓だ。
その御陣乗を先日の輪島太鼓フェスティバルで見た時、なぜ失望したのか? それはただひとえに、地打ち(裏打ち)のリズムの単調さにあった。 太鼓の地打ちは実は表打ちよりも難しいということは、太鼓を少しでも習った方なら当然御存知の筈だが、いくら表打ちの人が派手に叩いたところで、長く多く聞かされるのは地打ちの太鼓の音なのだ。 地打ちがすべてを司っていると言っても過言ではない。 さて、これが先日の輪島ではアクセントがどうなっていたかというと、
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しかし、僕の頭の中にある御陣乗の地打ちは、例えば、
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つまりこの地打ちは冬の日本海でなくてはいけない、と思うのだ。 (「楽譜にそもそも書いては意味がない」という議論はここではせずに書いた)
初めて御陣乗を聞いたのは、もうずいぶん昔のことだがその時の印象がそうだった。 僕の鬼太鼓座時代にも御陣乗太鼓は舞台のレパートリーに入っていたし、鼓童時代には猿・牛・鳥・カメレオン・カエルなど動物や魑魅魍魎が集う『鳥獣戯打』という演目に姿を換えて舞台で演じていたので、このスタイルにはとても愛着がある。 鬼太鼓座で御陣乗の地打ちを習ったのは藤本吉利さんからだったが、本当の地打ちのリズムは複雑なので、その「基礎練習パターン」というのを吉利さんが作っていた。それが、
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だった。
本番で叩く時には三拍子と二拍子をもっと自由に絡めて強弱をつけ、そして一番大事なことは表打ちのソロをもり立てることにある。 練習の時には地打ちだけを30分でも1時間でも一人で叩き続け、それが心地好い(?)冬の荒れ狂う日本海のうねりになっているかどうかがポイントだった。 そ、それが、イカン! 名舟の御陣乗はどうなったのか? 公演を2回見て2回とも同じだ。表打ちだけは昔よりもパワーアップしていたように思えたが肝心の地打ちが、あまりにも寂しく表現が貧しい。 たまたま、地打ちの下手な人が2回とも舞台に上がっていただけで、本当は違うのだと願いたいが‥‥。
伝統芸能というものも常に今創られているものだ。 元々、元祖も本家も家元もない世界だし、時代も人も変われば永遠に同じものが受け継がれていくものではなく、変わっていくのは当然のことだが、御陣乗太鼓の地打ちは以前の形に戻し て欲しい、と文化会館の闇の中で膝を打っていたのは、僕一人ではないなずだ。
と、えらそうに書いては見たものの、一抹の不安もある。 それは手元に昔の御陣乗のテープなどがないので、確かめてみた訳ではないからだ。 ひょっとして今も昔の太鼓は変わってないのかもしれない。 そうすると僕の全くの思い込みで、御陣乗の理想論を頭の中で作り上げていたことになる。 今年の正月、小学校の同窓会が初めて開かれ、皆と28年〜22年振りの再会を果たしたが初恋の人の今に会うのは、やっぱり気まずかった。 これも頭の中のイメージと現在のイメージの違いということになろうか。。。 |
後記
実は2007年7月、あるイベントで同じ舞台に立たせていただいた。
その時見た御陣乗太鼓の迫力は、素晴らしかった。
この1997年のマイナスの印象を軽く吹き飛ばす演奏だった。
いや、演奏ではなく、
鬼がただそこにいた。
オレたちは音楽などやっているのではない。
鬼だ。
そんな声が聞こえていた。
もはや、音やリズムがどうのこうのというのではない、
芸能の原点を魅せられた。
青葉に吹く春一番の風
富田和明with東京打撃団in青葉コンサート
2月28日
直径三尺のくり抜き大太鼓を一人で打った。 えらく久しぶり、というか考えてみれば、舞台の上で一人で叩いたことは初めてだった。 普段は三尺三寸の平胴太鼓を叩いているけれど、これは胴の厚みが大太鼓の四分の一くらいしかないし、ずっと以前鼓童の舞台では大太鼓も叩いてはいたが、それは両面を二人で叩いていたから、違うのだ。 皮の面が広く、木の胴の厚みがあると音がこうも違うのかと、新鮮な驚きを感じた。 あたりまえのことだが、 「どん」と一発叩いた音の広がり、厚み、一説得カが違う。 例えば、 「俺は君のことが好きだ」と、締め太鼓に叩きながら叫ぶと、 「やめてよ、そういうことあなたから聞きたくないのよ」 と言われそうだし、 一尺五寸の桶太鼓に言うと、 「あっそ、わかったわよ。だから何なのよ」とかわされ、二尺の宮太鼓でも 「ま、考えとくわ」となりそうな気がするが、 大太鼓は、なんだか受け止めてくれる気がする。こちらの言葉を聞いて、 「もう、好きにしなよ」と、言ってくれている‥‥‥。そんなわけないか? ま、これは叩いている本人の気分がそのくらい違う、という話をしたかったのだ。 気分というより、音による思考の舌鼓を打った感じでした。
公演が終わったからこんなことも言えるが、実はこの日、僕はかなり焦っていた。 僕の名前が公演タイトルの冠についている関係上、普段の打撃団公演の時より出番が多く、パワーが最後まで維持できるかどうか心配だったのだ。 個人で稽古はしていても、打撃団は必要最低限の練習しかしないグループなので、演目を全部通したのは公演当日が初めてだった。 リハーサルが終わると僕はもう完全に体力を消耗しており、それを濃い口蜂蜜ドリンクとユンケルで気合いを入れ直した。 そして公演の山場は何と言っても大太鼓ソロ演奏(この日は「春一番」という名前で叩いた)だったが、叩いている途中に気持ちよくなってきて、右手の一時的な痺れも 「今日はここまで叩いているのか」 と逆に嬉しくなったくらいで、体全体の疲れがとれた感じがした。 大太鼓は癒されるものでもあることに気付く。 そしてその後は不思議に楽な気分で叩けたのでした。 しかし、公演が終わりに近づくにつれ、 「ああ、これで俺の30代が去ってゆく」と、この時間が妙に愛おしく感じられ、 ハンチョウが亡くなって鼓童をやめ、中国へ行って帰って来て、結婚してまた太鼓を始めて子供が生まれて‥‥等々、一打一打の瞬間にこの10年間を反芻してしまったのでした。
3月7日の誕生日は、新潟県越路町(こしじまち)というところで迎えました。 ここで太鼓のチームが発足するので、その指導をやらせてもらうことになり、そのメンバーとの顔合わせがあった。 太鼓チームの発足に立ち会うのはこれで三度目ですが、太鼓を叩いてみたいと集まった人たちの顔を見渡してみると、皆、期待と不安が交じり合った複雑な顔です。 実は僕も多少の緊張がありましたが、 顔には出さず、余裕と希望が一杯の顔で皆に挨拶をしました。 それが僕の40歳の門出でした。 |
【特別付録】
三十才になった日の日記
1987年3月7日
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