富田 和明的東京打撃団ヨーロッパツアー2000旅日記

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※この旅日記は、すべて、富田和明個人の眼で見た体感想文でしかなく、東京打撃団のヨーロッパツアーを正式に報告する内容ではありません。ツアーを全体験した九人の内の、九分の一の報告でしかありません。ご注意下さい。

7月11日(火)  

日本ではすでに夏の空模様だったのが、約12時間の空の旅を終えてロンドン郊外のヒースロー空港に着いた午後三時半過ぎ、こちらでは気温14度の秋深し、それでもちょっぴり夏の残骸というお天気でした。
ヨーロッパツアーをアレンジした事務所のマネェージャーKさんと、7.5トントラックのドライバー・アンクルJ、それから太鼓を日本から運んだN通の方々がお出迎え。
あまりの涼しさに打撃団メンバーは、みな服をスーツケースから取り出して着込みました。
N通の巨大な倉庫に太鼓を取りに行ったり、初日の公演地Crawley(クラウリー)への移動で気が付けばすでに夜の8時(日本時間では12日の朝4時になっているはず・時差は8時間)、とは言ってもお空はまぶしい青空、まだまだ夕暮れには早い空模様だ。夕食はホテルのレストランでまずは、一ヶ月の旅の無事と公演の成功を願って乾杯!総勢11名の旅の始まりでした。

7月12日(水)  

昨日は相当疲れていたので、12時前にはベッドに倒れ、一旦2時半に目が覚めたものの6時半まではまた眠り、朝食。パンにコーヒードリンク類プラスヨーグルト、コーンフレークというこちらでは一般的なものだけど、ここは一つ温かいご飯を食べたいともう思ってしまう。
9時過ぎにS氏と、町の中心地まで、歩いて10分くらいなので買い物に出る。
思い返せばイギリスには10年以上来ていなかったけれど、ほとんど違和感はない。アジア・アフリカほどのカルチャーショックがないので、刺激がそれほどないということ。だから仕事として成り立っている(?)のだろうけれど・・・。
ただ確かに日本と比べて、時間はゆったりと流れている。昨日入ったレストランも、先ず飲物の注文、それから食事の注文、一つ一つの間合いがたっぷりとある。とっとこ進めていくというようなことをしない。ウエイトレスがゆっくりと客の話を聞いている。マニュアルに添った受け答えではないのだ。道路を歩けば歩行者用と自転車用道路があって芝生に囲まれているし、高速道路も無料で騒音防止壁がないので自然の中を走っているように感じさせる。空港からほど遠くないところに牧場地帯が広がる。牛、馬、羊がのんびりと時を過ごしていた(ように見える)。
買い物に出た町(クラウリー)のショッピングモールも落ちつきがあって騒がしくない。社会が安定しているのか、大人の雰囲気だ。と、まあこうくれば、せっかち日本人の僕はあまり落ちつかない。アジアの騒々しくてわけの判らないパワーが恋しくなるようなのだ。

昼にさっそくホテルの部屋でご飯を炊いて味噌汁、野菜ふりかけで食べると、この何でもない食事がすこぶる美味しい。ステーキ、フライドチキン、フィッシュ&チップスにパン食も悪くはないが、そうそう毎日食べたいとは思わない。こりゃやっぱり自炊だ!と判決が下り、もう一度、自炊体制の確立をめざしてS氏と買い出しに出た。
米と食材に缶詰、それに電気コンロと簡単な調理、食事道具。電気コンロは見つからなかったが他のものは何とか揃った。こうやって二人で一軒一軒店を回りながら「このコップにしようか」「米はこの米にしよう」などと品定めするなど、いよいよ貧しくても清い所帯でも持つような会話でありまして、別にそういう関係ではないものの、我ながら心休まる一時でありました。
これでいよいよツアーが始められそうだが、二人のスーツケースの中の半分のスペースは自炊関係で埋まってしまい、ま、いつものことか。

7月13日(木)  

いや〜疲れました。何が疲れるって、公演が終わった後の片づけとパッキングです。ツアーは最小限の人数でこちらに来ているし、おまけに飛行機に乗せるためには完全箱詰めですからなおさら時間がかかる。ホテルに帰ったら11時半でした。それから洗濯。自炊をする元気もなくパンをつまんでおります。
今日の劇場はホテルから歩いて5分のところにあった。劇場に入る道路の入口にドンと「TOKYO DAGEKIDAN」と書かれたでかい看板があって、よ〜し始まりだな、と思った。本番前、皆けっこう気合いが入っていた。ただ、気合いがあっても体が動かないもんですから、こういう舞台はよけいに疲れます。
劇場のキャパが850でお客さんは約400。まったく無名のチームにしてはいいほうだろうか。公演の最後はスタンディングオベーションで拍手をしてくれました。反応はまずまずだったと思う。ツアードライバーのアンクルJは、公演が終わってからメンバーの一人一人に「素晴らしかった、驚いたよ」と声を掛けてくれましたが、リバプール生まれでオーストラリアに普段は住んでいるアンクルJは、何事も少々オーバー。事ある毎に「信じられない」「奇跡だ」を連発しているので、実際どのように良かったのか悪かったのかはまだ判らない。まずは初日の幕が開いた。

7月14日(金)  

朝、少し雨が降った。相変わらずの気温は14、5度少々肌寒い。ホテルを10時に出発して空港へ向かう。空港のレストランで美味しくもないピザを腹に詰め込んで、飛行機に乗る。buzzという、初めて名前の聞く航空会社だった。午後2時40分発で約三時間のフライト。機内の飲食はすべてが別料金になっていて、水は50ペンス(約90円)、サンドイッチが2.5ポンド(約440円)、その分飛行機チケットの値段が安くなっているのだろうか。

フィンランドのヘルシンキに着いたところで、時計の針を2時間進ませて、午後の7時40分。
入国手続きやらで8時過ぎロビーに出る。それほど寒くは感じられなかった。空は日本で言えば、午後三時半くらいの陽気。首都の国際空港と言っても、閑散とした雰囲気でこの時間に活気はない。日本円を三千円だけ両替すると、1FLMが約20円だった。
ここでいっしょに来ているはずの荷物のチェックやらで待ち(僕らといっしょに行動している太鼓や荷物は合計二トン弱ある)、ヘルシンキをバスで出たのは9時半頃で、途中確かに10時半頃地平線に沈もうとする夕陽を見た。が、それからも完全に暗くはならない。遅くなった夕食を湖畔のサービスエリアで食べ、再びバスは走ってホテルに着いたのは日付の変わった午前1時。
フィンランドの空はまだ暗くない。部屋に入って1時半過ぎ、閉めてあったカーテンをそっと開けてみると、空は先ほどより明るさを増している。これが白夜というやつだ。夜がなかったが、これから寝ることにする。

7月15日(土)  

ユバンスギャンという町でのフェスティバルの中での公演だった。
フィンランド語の文字を見て「ユバスギャン」とはどうとも読めないのだが、劇場は「パビリオンキ」とまず読める。まだ建物が出来て二年ほどの新しい劇場で、外回りは工事途中のまま。劇場の客席の後ろ半分が二方向に分かれているのは、どういう意味があるのか知らない。スタッフはよく動いてくれる。フィンランド人は、総じて人当たりが柔らかいように思う。
昨日僕たちをヘルシンキ空港に迎えに来てくれたバスの運転手は、奥さん同伴だったが、その奥さんに「明日のコンサートを見に来るか?」と聞いたところ「チケットが高くて見に行けない」と言われた。チケット代は日本円で約2000円と2400円だが、こちらでは高い部類に入るのかどうか?日本で考えれば非常に安い値段だと思うが・・・。
今夜の公演は6時開演で途中休憩ありの2時間公演。観客は最後には温かい拍手になるが、演奏中に拍手が起こるようなことは少なく、全体的に静かだ。アンコールでメンバーのM氏がアニメ「ムーミン」(日本のアニメとは違う)の曲を吹いたのが一番大きな拍手だった。この町で毎年一週間開かれるこのフェスティバルは、もう40年の歴史があるそうで、主催者代表は「この劇場に来たお客さんでこんなに拍手が大きかったのは、今夜が初めて」だと言い、スタンディングオベーションにも「こんなことはここではないんです」と、客席の反応に非常に喜んでいた。

ホテルにサウナがあって、フィンランドに来たんだからこりゃ絶対に入りたいと、サウナ好きの僕は大急ぎで劇場からホテルに戻った。
サウナ室は15人くらいが入れそうな大きさで、中央に囲炉裏を囲むように石箱があり、そこにお好みで水を掛けて温度を上げる。それほど高温ではない。サウナとセットでプールもあって、サウナの水風呂替わりにプールに浸かる。サウナに入いると日本人は珍しいのか非常にフレンドリーに話しかけられた。向こうも英語がそんなに得意じゃないと、こちらも話がし易い。ここから日本は非常に遠い。憧れはあってもそうそう行ける国ではないようだ。みんな僕に優しかった。

7月16日(日)  

朝、ホテルの周りを散歩する。
鉄道の駅があって、そこのホームのベンチにしばらく腰を下ろしていた。外からホームには出入り自由で駐車場からも荷物の出し入れが楽だ。20分くらいはそこに腰掛けていたが、列車は一両もやってはこない。静かだ。
街中に戻るとマラソン大会が開かれていた。気温22度C、覚悟していた寒さはなく心地よい。このマラソン、聞けば42.195キロのフルマラソンだという。日曜の朝、街中を何周か走るのだろうか。応援する人たちの顔を眺めていても、この国は非常に落ちついた国であると思わせる。日本では見られない顔だろう。公演ツアーも劇場とホテルとレストランと移動の繰り返しだけでは、いくら拍手を戴いたとしても僕はストレスが溜まる。人々の暮らしや営みに触れる時、やっと気持ちが安らぐのだ。

昼にホテルを出発して今夜の公演地、カウスティンに向かう。
バスで約二時間半、牧場と森と湖が続く。カウスティン・フォークミュージック・フェスティバルも33年の歴史があって、こちらは野外。会場の中に大小テント劇場やら飲食休憩施設などがある。僕たちのテント劇場での出番は夜の10時からで、その前の出演者「SEMMARIT!(セマリッティ)」は男性20人ほどのアカペラコミックグループで会場を大いに湧かせた。昨夜のフィンランド人の拍手とまったく違う、ノリノリでやっぱりこんな風に楽しむんだ、と驚いた。この公演が8時40分頃に終わって、お客さんがどんどん帰っていった。やっぱり10時開演はお客さんがいるのか心配な時間だった。空はもちろんまだ明るいままだが。
夜10時、太鼓の音でお客さんがまたまた集まってきた。円形のテント劇場、ほぼ満杯の2500人程度か?一曲目から歓声は大きく、激しく、僕たちも当然力が入った。
公演が終わって11時半、ステージ裏にたくさん人がやってきてサインを求められたり、ただ日本人と話をしたかったりと、フィンランド人は、とても人がいいなという印象だ。とにかく温かい。太鼓類をトラックに片づけて12時半、ホテルに戻って一息着くと1時半。今日はほとんど寝る時間がないぞ。

7月17日(月)  

早朝5時出発なので眠い。迎えのバスの横に「オスモウ アホ」と大きく字がある。これは「日本の相撲の熱狂的なファンだった社長がどうしてもこの名前を付けたい」と言ったのでこの名前になったのではなく、創始者の名前に由来があるようで、バス会社の名前。フィンランド語はときどき日本語に馴染みのある発音になる。昨日のフェスティバルの打撃団担当者の名前が「ミンナ」で、ユバンスギャンで取材に来た新聞記者の名前が「エッサ」てな具合に。日本の名糖牛乳の名前は逆にフィンランド語の「メイトウ(ミルクの意味)」から来ていることを知る。
バスでヘルシンキ空港に戻る旅路、湖畔でしばし休憩。短いフィンランド滞在の名残を惜しむ。

三時間の空の旅でまたイギリスに戻る。そこからミニバンで走ること四時間、LUDLOW(ラドゥロウ)に着く。イギリスの田舎という感じで、ホテルも大きな民宿というアットホームな雰囲気。着いて早々、飯も喰わずに舞台演目に関するミーティングをしていると遅くなり、これまた深夜の1時半。時差で時計の針を戻すのを忘れていたので、戻すと現地時間11時半になった。今日のホテルはこちらに来て初めてのバスタブがある。こりゃ洗濯だ。

7月18日(火)  

牛の鳴く声で目が覚めた。アンクルJは早朝より、空港までまた荷物の受取にトラックを走らせ、スタッフは明日の劇場でのミィーティング、我々メンバーは、曲の手直し打ち合わせを午前中に行い、午後からやっとお休み。
昼はご飯を炊いてワカメツナサラダと味噌汁で食べ、一休みのつもりが5時半まで寝てしまう。
それから慌てて街へ出るが、店はバーとレストラン以外、総て5時半で閉店している。例外がないのが見事、としか言いようがない。外に一台の自動販売機の姿がなく、コンビニエンス・ストアーなんてとんでもない。そういうものがまったく無い。11世紀の暮らしそのままのたたずまいのようだ。
みんな家でゆっくりと夕食の用意をしたり、散歩に出かけ、その後時間をかけて家族全員で夕食を楽しむのだろうか?「公文式」や「英会話」の看板もなく(あるはずないが)、学習塾らしきものもないし、子供たちものびのびしているように見える。
ラドゥロウは城下町で、今もお城が残っている。川が流れ(こちらの川は堤防がないので自然のままだ)、牧場が続く。ここでも午後の9時半頃やっと夕暮れが近づく。それまで誠に明るい。今日の天気は風もなく、快晴に近い青空だった。

7月19日(水)  

今日の劇場は、一階が博物館になっていて、他にレストランや映画館もあるので、ホールは三階にある。リフトは小さいのが一つでそれも不便な場所にしかなく、舞台までは遥かに遠い。当然、大太鼓や大きい宮太鼓は三階まで人力で押し上げる。久しぶりに大変な搬入のホールだ。歴史のある街の中心にあるので、建物が狭い造りになっているのは、仕方のないことだろう。みんなで唸りながら総ての荷物を搬入した。
ホールは300人弱のキャパシティで、お客さんの入りは120人ほど。日本からこれだけ荷物を持ってきて、こんなコンサートを100人足らずの人数で観れるなんて、まったく贅沢な公演だった(それはお客さんがそう考えるかどうかであって、こちらが言うセリフではないが)。
公演が終わった後、何が一番嬉しいかというと搬出が楽な事だ。その逆の場合は疲れが倍増する。今日は僕の足どりも重かった。トラックへの積み込みが終わったのがちょうど12時頃、街は死んだように静かだ。この街はどうなっているのだ?
空を見上げると(イギリスにはきちんと夜空がある!)満天の星。久しぶりに星を見た。

7月20日(木)  

きのうホテルに帰ってから風呂に入ろうと思っていたら、みんなが一度にお湯を出したらしくシャワーのお湯が水になり、2時過ぎやっと熱いお湯が出たと思ったらまた水、もう寝る。朝は6時起床で、あんまり寝た気はしない。7時にホテルを出発して、一路ロンドンへ。今日の移動はミニバンなので、移動中もあまり眠れはしない。
11時頃市内へ入ったものの迷いながらやっとクイーンエリザベスホールへ到着したのは昼の12時。ロンドンは昨日のラドゥロウとはまったく対照的な現在活動形の街で、歩く人たちがアジア、アフリカ、中近東、なんでもありのインターナショナル。人種の坩堝だ。同じ国でもこうも違うのか。

この劇場は10数年前に鼓童公演で来たことがあったが、思い出すのに時間がかかった。客席と舞台の様子はほとんど記憶にない。搬入口とグリーンルームは憶えていた。ここも搬入口らしきものはなく、楽屋入口から全部の荷物を搬入する。昨日よりは楽だが・・・。搬入とステージでの演奏位置決めを終えて遅い昼食。
何人かのメンバーは寸時を惜しみ、地下鉄でチャイナタウンまで行ったらしいが、僕は劇場の隣にあるナショナルフイルムシアターのカフェで済ます。イギリスでは飲食費が高くつく。今日も最初に覗いたレストランのメニューには昼のランチで10〜12ポンド(1750〜2000円)もしていたので、そこはパスして簡単にカフェで済ませたが、それでもピザとスープと野菜と水これで7ポンド(約1200円)だった。外食は高くつく。安いのは芝居や音楽ダンス、映画などのチケット料金だろう。今夜の公演も入場料は10.5ポンド(2000円はしない)だ。僕らの公演だけが安いのではなくて、だいたい相場はこんなもんなんだろうか。芸術に触れるには容易く、食事には金をかけるのがイギリスの習わしだろうか?
7時45分に幕が開く。席数900のこの劇場で600人ほどのお客さんだ。今夜の公演のお客さんは、東京打撃団ロンドン初お目見えだというのに、ちょうど東京公演のお客様と同じかそれ以上にすこぶる反応がよく、大いに盛り上がり、僕たちも乗せられてしまった。それにホールの生音もとても気持ちいい響きだった。今日、このツアーの初日がやっと開いた感じだ。
公演終了後、昨日に引き続きイギリスの太鼓グループの人たちが楽屋に訪ねてきて、今日は搬出終了までしっかりと手伝ってもらった。これは助かる。こちらでもそろそろプロの太鼓グループが誕生してきて、活動は活発なようだ。演奏はどんなスタイルかは知らないが、みんな見上げるほど背が高くてガタイがデッカイ!きっと太鼓もパワフルなんだろう。

夜11時、ロンドンを離れる。せっかくロンドンに来たというのに僕は懐かしい場所に一ヶ所も足を踏み入れることなく去る。車を走らせること二時間半、賑やかな人間の臭いのするロンドンから、人気のない草木の萌ゆる場所にやってきた。今日もすでに深夜二時半、今夜の宿は大学の宿舎だが、こざっぱりしていて気持ちがいい。

(P.S.)後でロンドンの友人からメールを貰いました。クイーンエリザベスホールは、数年前に劇場内が改装され、以前は1000を越えるキャパだったのが、改装後少なくなり、その分舞台が広くなったそうです。この日のチケット料金も10〜15ポンドの三段階に分かれていて、友人は前から二列目で12.5ポンドの席で、学割がきいて10.5ポンドになったそうです。

7月21日(金)  

チチェスター大学の中のホールでの公演。夏休み中なので校内は眠ったように静かだ。蝉の鳴き声もない。
今回のヨーロッパツアーをアレンジした事務所の代表M氏の家がこの近くで、お昼はその彼の家でサンドイッチとパイを御馳走になる。庭が広くてそこで日向ぼっこをしながら食べた。雲一つない青空だ。日差しが強いがそんなに暑くはなく、今、日本ではかなり猛暑が続いているらしいが、ここには軽やかな夏があるだけだ。
家の前に小さな池があって、そこにカモが住んでいた。日本と違うと思うのは、池や川に垣根や「危ない」「立入禁止」などの看板がないことだ(あるところもあるのだろうが、かなり少ないことは確かなようだ)。日本では危険性が一でもあれば、すぐ人が入れないようにし、目に付くところに看板を立てる。こちらにはそれがない。替わりに水際にベンチが置いてある。自然と楽しむことを優先しているところがいい。
今日のホールも小さくて250人ほどのキャパシティ。六割ほどの入りだったが公演が終わった後、劇場担当者は飛んできて「次はいつ来るんだ?また必ず来てくれ!」と興奮して言ってくれた。三日連続公演の最後、体は疲れてきっているが、動き出せばわりあいと楽に体は動いてくれる。ただ、搬出はもうくたくたに疲れてしまった。これで打撃団ツアーは前半を終了して、次はハノーバー博覧会のイベントを挟んでその後、後半に突入する。
今日からミニバスの運転手Pさんが合流したので、12人での旅となった。

7月22日(土)  

7時起床、朝食を食べて8時出発。今日は大移動の一日だ。まずドーバーに向かう。11時半頃に着いて、フェリーは12時40分発。海の匂いは好きだ。世の中は夏休みのまっただ中のようで、家族連れに学校単位などでこれから休暇を楽しみ人々で一杯だ。
ドーバー港の海は緑白色。その海が波に揺れている。午前中はずっと曇り空だったのが出航の時には晴れた。青い空と白い雲、飛ぶカモメとドーバーの壁。波飛沫を上げながら海峡を渡るフェリーの姿は何ともいい。一時間半の航海予定が、フランス・カレー港で待たされたので、二時間かかる。
時差があるので時計の針を一時間進めて、これからがフランス、ベルギー、オランダ、ドイツへと長い移動だ。ミニバンとトラックの計二台が道をはぐれないように、トランシーバーで連絡を取り合って仲良く連なって走る。それでも結局めざすハノーバーのホテルに到着したのは12時半を過ぎていた。本日の移動は、陸地約830キロ+ドーバー海峡横断。

7月23日(日)  

朝は久しぶりにゆっくりとし、遅い朝食を食べて(今日のホテルの朝食は豪華)、衣裳の洗濯をする。午後から、市内オペラ劇場のリハーサル室を借りてハノーバー博のリハーサル。
ヒダノ修一(和太鼓/今回は音楽監督も兼ねる)、神保彰(ドラム)、木下伸市(津軽三味線)、土井啓輔(尺八)、CAGR(アクロバティック ダンス)そしてたくさんのスタッフの面々とここで合流。前回のリハーサルから数えて、一ヶ月振りの再会だった。夜は、明後日の公演の成功を祈って全員で乾杯!総勢40〜50人ほど?
この後スタッフは、翌朝の四時頃まで会場の舞台で仕込みをやったらしい。


7月24日(月)  

朝10時から通し稽古。錚々(そうそう)たるメンバーの技が間近で観れるのでこんな嬉しいことはない。特に僕の注目は今年5月、20世紀三味線チャンピオンに輝いた木下伸市さんの演奏だ。
どうしたらこんな三味線が弾けるようになるんですか?と幼稚園児的に聞いてみると「毎日の練習です」と王道の即答を得た。唄を三歳から、三味線の初舞台は11歳だそうで、それからずっと今日まで毎日毎日の練習を繰り返してきた結果だということだ。この当たり前のことを続けることがいかに難しいことか・・・。
通し稽古の後は片づけ。オペラ劇場のリフトを二台乗り継いで搬出する。舞台に続くリフトは、7トン半のトラックがすっぽり入る大きさ。そしてこの劇場は舞台が巨大だ。
間口奥行きはもちろんの事、上手下手にもう一つ舞台と同じ広さがあって、また天井が空のように高い。皆で驚いて見上げていると劇場のマネェージャーが(この日本人たちをもっと驚かせてやろうというように)客席も見てみるかいと声を掛けてくれた。舞台が使われていない時は客席と舞台の間に防火の為の鉄のカーテンが下りている。客席はそんなに大きくなかった。ということは舞台が客席の数倍ではきかない大きさだ。そしてこの舞台の下がこれまた巨大なセリだ。そしてその後ろに巨大な地下倉庫群が続いている。舞台で働く人数だけでも150人もいるそうで、巨大尽くめ。こんな空間を造らなければ表現できない芸術もあるのだ。
午後はEXPOの見学を少しして一旦ホテルに引き揚げる。スタッフは前のイベントが終了する夜10時から仕込み開始。打撃団メンバーはこれまた深夜1時半から搬入セッティング開始。

7月25日(火)  

今日は不思議な一日だった。朝を三度迎えた気分。
一回目の朝は午前1時、会場に行って搬入セッティング。3時で一区切り付けて3時半にホテルに戻り、一休み。二回目の朝は5時、今度は会場で楽器の音チェックとリハーサルを9時半過ぎまで。ホテルに戻り一休みの後、三回目の朝は午後1時。今度は本番の為の出発だ。打撃団代表のH氏はじめ、舞台監督、音響照明、その他大勢のスタッフは昨日からの徹夜作業なので、その方たちはまだまだ長い長い一日が続いていることになる。
EXPOでの会場は、EXPO PLAZAという野外のメーン会場だ。野外でも屋根付きなので雨の心配はない。この一日の為に舞台の上では三つの高い山台が組まれ大きな幕が掛かり、竹のオブジェが飾られ、花道が造られた。舞台前にはCAGRの為のトランポリンがある。山台の中央に大太鼓、上手の山台には神保さんのドラムセット、下手の山台にヒダノの太鼓セット、その下に三味線、尺八、笛が並び、中央山台下に、大平胴二台と他打撃団の太鼓が並ぶ。今日の朝9時間には、このセッティングがほぼ完了していたので、今日の朝9時過ぎには、このセッティングがほぼ完了していたので、その頃からすでにお客さんにはかなり目立っていた。昼過ぎには場所取り(席の)の人が集まりだし、開演二時間前にはすでに満員状態だった。その中で最終音チェックなどをしていたので、楽器の音を出すだけで拍手が来てしまうのには少々困った。

開演時間の午後四時の10分前になり、熊谷・太鼓と村山・笛の寄せ太鼓が始まる。
当初の予定では、まだこの時にはお客さんがいないだろうから、太鼓を軽く叩いてお客さんを集めようという演出だったがしかし、予想外にあまりに早くお客さんが集まってしまい、その超満員のお客さんが今か今かと開演を待っている中での寄せ太鼓になり、今日のプログラムで一番の注目度になってしまったのではないか。
その後、来賓などのあいさつがありミュージックコラボレーション『日本の響きと躍動』がスタートする。
まず一部はそれぞれのグループ個人のパート演奏があり、トークコーナーを挟んで二部はジョイント、そしてフィナーレに突入していった。これだけのメンバーが集まって面白くないはずがない。その演奏プラスCAGRのアクロバットダンスが華麗に舞い踊り、宙に跳ねる。それから舞台美術照明などの演出が加わり、そして何といっても集まった観客の皆さんの熱い盛り上がりがまた一段と舞台の上のメンバーに火をつけた。今日は僕も客席で見ていたかった。午後6時終演、拍手が鳴り止まず、いつまでも温かい拍手が続いた。今日はいったい何千人の観衆だったのか多くて判らない。

いつもの如く打撃団は自分たちで片づけをして、8時過ぎからレセプションに参加する。
今日のレセプションは出席者の数も多く、料理も豊富で、また活気が充ちていたように感じられた。型通りのレセプションではなかった。この日のために日本から駆けつけた、次回EXPO主催地の愛知関係者によるアピールの場になっていたからだろうか。日本ではEXPO主催についてまだいろいろ問題になっているが、このレセプションを見ていると「愛知の気合い」が充分に伝わってくる。寿司、味噌カツ、テンむす、焼き鳥、野菜の煮物、ほうれん草にゴボウ炒め、漬け物、などなど。太鼓打ちは食べ物に弱い。久しぶりに日本食をたらふく食べ、大満足の一日となる。誰だ?ソバと豆腐も食べたかったなんて言ってるのは!

7月26日(水)  

朝は7時に目が覚めてしまい、ハノーバーの街を歩く。僕たちの泊まっているホテルは駅の反対側に建っていて、駅の正面口まで3分ほど。そこから南に車両進入禁止地域(歩行者天国)が広がっている。一時間ほど歩いてホテルに戻り朝食を食べ、また寝る。午後再び街に出る。今度は三味線を持って。実は朝の散歩も下見を兼ねていた。
歩行者天国になっている中央通りにはすでに何組も大道で仕事を始めている。全身を白塗りにして彫刻の如く立つ男、ロシアから流れてきたような民謡一座四人組、アコーディオンと弦楽器、バイオリンソロ、サックスソロなどがある間隔を置いて場所を決めていた。どこで演ろうか、考えながらその彼らの前を何度か通り過ぎ、やっとあるデパートのひさしの下に場所を決めた。
路上で三味線を弾くのもえらく久しぶりのことなので、演ろう、と心の中で決めてからも、三味線を持ってホテルを出てからも、まだ本当に決心が付きかねていたが、場所を決めて三味線ケースを置き腰を下ろしたところで気持ちも座った。こうなれば全然恥ずかしいとも思わない。
三味線を組み立てて、靴を脱ぎ裸足になって石畳の上に正座をする。「よし」と気合いを入れて眼を閉じ、三味線にバチをあてた。何日か休んだだけで左手の指が動かなかったが、かまわず弾き続ける。どのくらい注目されているか判らないが気を抜くわけにはいかない。舞台の上では長く弾いても10分くらいだが、この時は40分近く弾き、へとへとになってもう止めた。眼を開けると15人くらいの人だかりがあったので、今度は軽く静かに唄を歌っていたら、みんないなくなってしまった。やっぱり唸って声を出して必死に弾き続けていたほうが路上ではいいのだろう。
コインはそんなにたくさんあるように思わなかったが、ホテルに帰って数えてみると、16.02マルク+1US$(約1000円)もあった。場所を変えてもう一度やればよかったがもうこれだけで疲れてしまったのだ。一枚1マルクのポストカードと水(3マルク)を買いホテルに戻る。そして、4時にホテルを出発して日本に帰る人たちを見送った後、もう一度路上に出てみた。
二回目はもうほとんど躊躇することもなく、すんなりと場所を決めて座った。今度の方が人通りも多く、演奏中も多くの人が足を止めているようだったが、30分ほどやりこれまた疲れて引き揚げホテルでコインを数えると9.7マルク(約500円)だった。帰り道に見つけた映画館(Palast-Theater)の入場料を見ると一番高い映画で10マルクだったので、このお金で映画を見ることにする。アメリカ映画「Der Sturm(原題 The Perfect Storm)」という台風で漁船が遭難する内容だが、台風のシーンが迫力満点。決して明るい映画ではなかったが、ツアーを忘れた一時を過ごすことができた。

7月27日(木)  

再び打撃団ヨーロッパツアーの始まり。10時過ぎにハノーバーを出て、ドイツからオランダを越え、ベルギーのアントワープまで6時間半の旅。今日はあいにくの雨だが、今日のホテルの部屋にはバスタブがあって嬉しい。部屋の中もなかなか広く、ホッと一息つけそうだ。

7月28日(金)  

まだ雨は降っていた。スフィンクスのフェスティバルは今年25年目になるヨーロッパでは有名な国際フェスティバルらしい。ホテルから車で15分ほどの距離に会場はある。大小五つのテント劇場と、舞台だけが屋根の付いた野外ホールがあって、僕たちは一番大きな野外ホールでやることになっている。今日はその下見。この会場は普段は牧場のようで、雨が降ってその上を車が一度通ると、下の土がどろどろのぐじゅぐじゅになってしまう。下見中にも大雨が降ってきて、明日はどうなることかと心配になる(今夜もここで7時から夜中の2時まで、いろいろなコンサートがあるはずだけど)。降っては止み、晴れては雨、というわがままな空模様が一日繰り返された。
このフェスティバルに参加するグループの国名を見ていると、モロッコ、マダガスカル、ブラジル、ベネゼエラ、イラク、セネガル、アフガニスタン、エジプト、コンゴ、パキスタン、ブルンジ、ジンバブエ、キューバ、アルジェリア、パナマなど、なかなか普段眼にしない国名がバラエティに富んで並んでいる。

午後、アントワープの街に出てみた。
ベルギーはワッフルの故郷なのでまずはそれを食べ、フランダースの犬とネロ少年が最後に訪れてそこで死んでしまった物語のそこ、ノートルダム寺院でしばしたたずみ、ベルギーは小便小僧の本家家元だというのでこれも捜したが、これはブリュッセルにあるらしく、ここには無いのであきらめ、また世界のダイヤモンドの原石の70パーセントがこのアントワープに集められて加工されるとも聞いたが、僕の手の届くような値段ではないのでこれもあきらめ、最後はやっぱり中華料理レストラン『上海』でチャーハン、焼きソバ、青菜炒めとシューマイを食べ、ジャスミン茶を飲んで帰ってきた。

7月29日(土)  

スフィンクスフェスティバル本番の今日は昼の出番なので、朝は7時半に出発して搬入仕込み。会場入口から舞台までの道が泥沼で大きなトラクターがトラックを押して搬入口まで届けた。短い時間ですぐに準備の持ち時間は終わってしまう。昼近くになると楽屋に今日出演のグループがどんどんやってくる。大きなテントの中をベニヤで仕切っただけの楽屋なので、他のグループが楽屋で音出しを始めると相当賑やかだ。僕たちの隣のボスニア=ヘルツゴビナのグループもブラスをぶっ放し始め、アフリカ各チームは声を張り上げ歌いドラムを鳴らす。
12時半、東京打撃団の紹介があり1時間の演奏がスタート。今日は青空の見える気持ちの良い晴だ。今日は大丈夫そうだ、雨は降らないと思っていたら、本番の一番いいところで本格的な大雨になる。せっかくかなりのお客さんが集まっていたのに、多くのお客さんは後ろのテントに走っていった。ところが、動かないお客さんもかなりいる。傘やカッパを着込んだ人もいるが、まったくお構いなしに見ている人も多く、最後まで盛り上がった。今日の演奏はベルギー国営テレビ放送で録画されたので、いつか放送されるだろう。

僕たちのコンサートが終了して、中二時間で次のグループの演奏が始まるので慌ただしく片づけを終える。その後はせっかくの機会なのでフェスティバルを楽しむことにしたが、雨が断片的に降り続き、まったくもって会場の地面は泥の海だ。そしてこの泥が臭い!それでも観客はどんどん入場してくる。
僕が驚くのは赤ん坊や小さい子供たちを連れた家族も多いことだ。雨宿りも兼ねたテント劇場も蒸せかえる人の渦で、もちろん腰を下ろす場所もない(自分でシートや椅子を持ち込んでいる人は座れるが)。よくこんなところに幼子を連れてきたなと思ってしまうのだが、結構みんな平気の平べいで楽しんでいるようなのだ。こんな小さい頃から夏のフェスティバルに慣れてしまえば恐いものはなくなるだろう。靴や長靴が泥まみれになって、もう裸足になっている人も少なくない。中にはパンツ一枚で泥の中で踊っている人もいる。
8時近くまで会場内をぶらぶらすると足が棒のようになって、ホテルに戻る。

7月30日(日)  

また大移動の一日。8時にアントワープを出発、11時半フランスのカレーからフェリーで、またドーバー海峡を渡る。ドーバーに着いたところで、パスポートチェックに一時間か一時間半、もういい加減にしてほしい長さだった。
何百人と列を作っていても係員はゆっくりとしか仕事をしないので、列が減っていかないのだ。やっと僕の番になって、そこに行けと言われたカウンターの職員は特にひどかった。職員はひどくないかもしれない、そのシステムがいけない。この職員は研修中らしく一から十まで、横の別の職員の指示にしたがって動き、仕事を覚えようとしていたが、なんせここはイギリスなのでゆっくりとお茶でも飲みながら会話を楽しんでいる風なのだ。こちらはずっと待ったまま。一応向こうも悪いと思っているらしく「すみません」とは言うが、頼むから研修を受けてから職務について欲しい。「今日初めて出勤なので私は判らない」と言われてもこちらは困る。
そんなこんなで大幅に遅れて再出発。ツアーの初日に訪れたクラウリーのホテルに向かい、そこでツアーマネェジャーが交替する。そしてリバプールへ、ここでドライバーも交替、僕らメンバーは交替するわけにはいかないのでそこで食事もしてまた走る。高速道路のサービスエリアにある今日のホテルに着いたのは、12時を過ぎていた。今日は18時間の移動の旅だった。

7月31日(月)  

移動はまだ終わらない。これがツアーである、と再認識するが、狭い車の移動は段々腰に疲れが溜まってくるのだ。朝8時発で本日の宿があるアバディーンに着いたのは午後1時。
昨日から今日にかけての移動は、陸地約1100キロ+ドーバー海峡横断。

今日のスコットランドは霧におおわれている。それに寒い。これで夏なんだからな〜。僕はほとんど冬の出で立ちだ。こんな時でもTシャツ一枚でいるのは若いK氏だけだ。僕はやっぱり暑い夏の方がいい。
突然、TV用と新聞用の録画と写真撮影が入り、ホテルから30分ほどのところにあるドラム キャッスルというお城に行った。ドラム(DRUM)城は太鼓好きの王様がお城の形まで太鼓の形にしたのでこんなお城になりましたというのであれば嬉しいなあと思っていたら、そうではなくて、この辺りの先住民族ゲイル人のゲイル語で「ドラム」は「突起した」「突き出た」という意味で、このお城のある場所がそういう地形であるらしい。撮影の為に訪れた僕たちだが、このお城のレセプションに日本人女性がボランティアで働いていて、驚いた。こんなところにも日本人はいるんだ。でもこの街に住んでいるのはこの方お一人だけらしいが。
取材の撮影が終わってからこの方に城内をゆっくりと日本語で案内していただいた。今ここは博物館になって一般公開されている。一番古い部分は13世紀に建てられたもので、小さなお城だが中の展示物は豊富で、この女性も大張り切りで楽しい説明だった(せっかくのお城なのに訪ねる日本人観光客は少ないらしい。もっと皆さん来て下さいということです)。

この後、アバディーンの街に行くが5時半でお店が見事に閉まっている。食料品のマーケットまで6時で閉店なんだからすごい。開いているのはレストランと酒屋だけ。しょうがないので中華料理屋を捜して(『長江』)今夜もチャーハン焼きソバと野菜炒めなどを頼む。餃子を食べたかったのにここにもない。広東料理店だからないと言うのだが、海外の中華レストランは餃子が食べられるところが少ないのは確かだ。それに値段もけっこう高い店(日本の中華料理店と違い、レストランは高級なイメージ作りをしているところが少なくない)だったが、お店のお兄ちゃんもお姉ちゃんも楽しい人で、話をしていると僕はとてもリラックスできる。これだからヨーロッパに来ても中華ばっかり食べに来てしまう。

8月1日(火)  

アバディーンの劇場は、久しぶりに普通の劇場で搬入口もしっかりして舞台設備もまずまずだ。客席も三階席まであってキャパが千五百弱。ここでも公演は青少年フェスティバルでの招待公演だった。
舞台の上は軽いスロープがかかっていて坂になっている。ヨーロッパではこういう舞台は多い。回転技が多い神楽を踊kくんはリハーサルで悲鳴を上げていたが、本番では何とかこなしていた。
今日は夜7時半開演、途中休憩ありのアンコールの時間も入れると約二時間の公演。今夜のお客様は700人ほど。きのうお世話になったドラム城の女性も博物館の館長さんと一緒に入らして、興奮しながら楽屋を訪ねてくれ、「こんなに客席が盛り上がったのはとても珍しいことです」と目を輝かせていた。
公演が終わった後、右腰あたりに嫌な痛みをおぼえて、すぐにスプレーをし腰痛ベルトを巻いて搬出に取りかかった。ホテルに戻ってS氏にスーパーマッサージをお願いして眠りにつく。二日間の移動の疲れが腰に来た。

8月2日(水)  

またしても移動の一日。このスコットランドのアバディーン公演一回をするために行き帰り二日間づつの四日間が移動日になっている。一日では次の公演地まで走れないのだ(僕たちが国際ライセンスを持ってきていなかったので運転を交替できず、トラックとミニバンそれぞれドライバーは一人)。今日の移動は約730キロ、日本で言えば東京から鳥取まで走る距離か?これを10時間で移動した。
レイスター着午後7時。今夜の夕食も中華に行ってしまう。『快活谷(Happy Valley)』。ここにも餃子はなし。香港人の経営だった。

8月3日(木)  

レイスターは明後日の公演地で、その宣伝のために11時から新聞用の写真撮影と、12時から地元子供たちとの交流太鼓ワークショップを行った。
この子供たちは地元のイギリス人から日本語を習っているということで、9才から13才くらいまで24人ほどが元気に集まった。みんな僕たちの顔を見ると「こんにちは」とつぶやき、こちらがハッとして「こんにちは」と返すと、「さよなら」と答える。なんだよ、あいさつしかできないのか、と思っていたら、数字は一から十まで言えた。今はこんな状態でも、将来はこの中から一人くらいは日本に留学に来て、一人くらいは日本人と結婚して、一人くらいは太鼓を叩くことになるかな、などど考えた。
レイスターからイプスウッチへの移動、約三時間。
まだここも明日の公演地ではない。明日の公演地・アルドバーグはホテルも無いところか?とまた一瞬不安になる。地図で見るとほんとに小さい町なのだ。
イプスウッチの中心街は、若い女性が見たら喜びそうな映画のセットに出てくるような町並みだ。時間はまだ午後6時前だが、店は見事にすべて閉まっていて買い物はできない。まだ外は明るいけれど、ゴーストタウンのような感じだ。車もほとんど通らない。今夜の中華は『金熊猫(Golden Panda)』。値段はそれほど高くはなく、店員のサービスもまずまず。もうこの頃は、まったく自炊をしようという気力がなくなってしまったようだ。
明日からは五日連続公演で、今日がイギリス最後の自由な夜。H氏とS氏の三人で映画を見ることにして、映画館へ。入場券は4.2ポンド(約735円)、これで最新ロードショーが見られるので映画は安い。切符を買っていると日本語が聞こえたので振り返ると、中学生のようなグループが来ていた。こんな町にも夏休みのホームステイで来ているのだろうか。映画は、ニコラス・ゲージの『GONE IN 60 SECONDS』を観た。

8月4日(金)  

イプスウィッチから約32キロ、アルドバーグは海に近い観光地のようだ。海と言っても、湿地帯のような雰囲気で「まるで気仙沼」とは誰かの言葉。
18世紀に建てられた劇場で、煉瓦の壁に木の屋根、舞台も客席も同じ一つの屋根の下だ(中は改装され設備は整っているが)。お客さんがいないホールの音は、リハーサル中、響きすぎて隣で叩いている太鼓のリズムがよくわからないくらいだった。が、本番にお客さんが入ると、あら不思議、素晴らしくよい音に生まれ変わった。
客席前方の中央部分(ホール中央)には座席が無く、開演時間までガランと空いていてどうなるのかと心配したが、そこにはお客さんが自分でクッションやシートを持ってきて座る、座布団席だった。ここに来るお客さんは、このホールがこういうホールであるという事を知っていてきちんと準備して来るのだという。キャパ827席、ほぼ満席になる。
今日のお客さんは最初から楽しむために来ているようで、登場するだけでも拍手が熱く、一曲一曲終わる毎にまたいつもの倍くらいの騒ぎようだった。イギリスでは珍しい感じの。僕らも当然悪い気はしない。五連ちゃんの初日だというのに張り切ってしまった。
午後9時半、気持ちよく公演が終わって後片づけ、搬出積み込み。11時発、三時間の移動で、午前二時過ぎレイスターに到着する。ここのホテルの部屋が狭い部屋で、入っただけで気分が落ち込む。

8月5日(土)  

今日の劇場はまた小さく、搬入は楽だけど、舞台は狭く袖も裏もスペース無く、楽屋も通路もあったもんじゃない。どこもかしこも荷物だらけで、これまた消防法などでうるさい係員も現れ、本番前は慌ただしかった。
ところが本番中も慌ただしかった。というのも、舞台袖があまりにもスペースなく、一尺五寸の宮太鼓をx台に乗せて上下両袖舞台前にセットしてあったのだが、これが二台とも公演本番中に、舞台から転げ落ちてしまったからだ。こんなことは一度だってあったことはないのに、それが二度も続いたので気味が悪い。
それに二度目に太鼓が落ちた時は、近くにセットしてあった今まさに持って出ようとしていた花瓶と花も転げ落ち、花瓶が割れてしまった。あわてて代用品でその場を何とかしのいだが、本当に驚いた。今夜の公演は二部形式で一部と二部の公演の間に休憩があり、皆で気持ちを整えた。事故が続いた前半のまま後半に突入するのではなく、休憩時間があってよかった。二部は、必死で頑張る。妙な気持ちの弛みと、昨日からの疲れが出ていた結果が舞台に現れたのだろうが、これはイカン!と、一同で気持ちを引き締める。260席のホールで、ほぼ満席220席の入り。
僕の体も、腰痛は徐々に重くなり、足もしびれ、ホテルでもベッドは使わずに床にシーツを敷いて寝ている。

8月6日(日)  

寝ぼけ眼のまま、朝8時には移動のミニバンに乗っていた。今日の移動は約320キロ〔東京〜新潟くらい)だが、ハイウェイではなく一般道が多いので時間はかかる。それに昨夜こわれた花瓶(楽器として使っている)の替わりを探す時間も必要なので、早くレイスターの町は出発した。
何とか使えそうな花瓶の替わりはホームセンター「B&Q」で買う。この「B&Q」はイギリスで有名なホームセンターらしいが、品揃えは日本のそれと大差がないように思われた。大型ガーデニング用品は確かに少し安いが、全体的に日本と同じか、日本より高い。消費税が17.5%かかっているとしたら、本来の値段は日本より安いかもしれないが・・・。
ハイウェイから見る景観に変わりはなく、ずっと見慣れた羊や牛、馬の牧場が続く丘陵地帯だが、川ではつり人の姿が多く見られた。ウェルズ地方に入る
昼飯は海岸の町でステーキを打撃団代表J氏のおごりでいただく。「最後の三日間をよろしく」という意味だ。この辺りの町は、セカンドハウス(自分の家とは別に週末や休暇を楽しむための家)が多く、キャンピングカーも多い。午後四時過ぎにやっと劇場に着く。

ここもキャパ160席の小ホールだが、レストランやバーやレセプションなどはきちんと整っている。しかし、確かに小さい。また、舞台袖も舞台奥もないので、搬入するにも狭くてたまらない。今日は劇場裏の搬入口前のトラック駐車スペースが、太鼓やらカバーやら道具大箱を置く場所となる。青空の下でお店を広げている感じだ。
この劇場に入って気がついたことは、看板やら劇場内のいろいろな表示が、ウェルズ語と英語になっていることだ。英語の本場に来て、実は英語以外の言葉を使っていることが面白いと思う。
開演時間の午後8時半まで休む暇なく準備して、開演。
車でやってくるお客さんの駐車場が、ホール裏にあるので、車を降りて劇場入り口に入るお客さんには僕たちの舞台裏が丸見えになっている。
今日は本当に満席。きっちりすべての席に人が座っていた。それがまた舞台に立つ僕たちの視線から全員の顔が見えるのだ。小さくても満席はやっぱり嬉しい。臨場感も満点で、かなり気合いの入ったいい舞台だったと思う。
コンサートが終わって雨が降り出す。嘘だろ、さっきまであんなに晴れていたのに・・・。これだからイギリスの天気は嫌だと思いながら、大忙しで片づける。さっきまでお客さんだった人たちが、その作業を横目に「良かったよ!」と声を掛け、また通り過ぎる車はクラクションを鳴らして去ってゆく。
全部の作業が終わるまで、一人の青年が待っていた。彼は、広島に四年いて太鼓を習い、ある先生から指導の免許を頂いたという。それで今、太鼓を一般の人や学校などで教えて生活を成り立たせているらしい。こういう生き方も可能なくらい、イギリス社会で太鼓が認知されているのかと驚いた。

8月7日(月)  

民宿風ホテルの屋根裏部屋で目が覚めた。あと二日だ。朝7時半出発もなんのその。今日の移動は約490キロ(東京〜京都くらい)だが、これが最後の長い移動なのでバンの中の空気も明るかった。途中昼飯休憩を挟んで7時間半の移動。これでその日の夜にフル公演(それも一部二部休憩ありの二時間プログラム)をやるんだから日本だったらとても考えられない。それも五連続公演の四日目のメニューにこれが用意されているんだから素晴らしい。
今日の公演地・フォルモスは海辺のリゾートの街のようだ。

例によって道に迷い、劇場もわからなくなったら、今日は親切な親子に出会い、劇場まで車で道案内してくれるという。ありがたい。それで「着いたよ」と言われて悪い予感。
とっても判りにくい場所に劇場があって、これじゃ自力ではたどり着けたかどうか判らない。搬入口は何処だ? あった!
まるで細い路地裏の倉庫の入口で、トラックからは坂になって階段付きでかなりの距離もあった。長い移動の後でもう公演を止めて帰りたくなったが、あと二日だ、という呪文が効いてみんな元気に搬入を始める。助かったのは劇場のスタッフ二人がとてもよく手伝ってくれたことだ。
劇場の中はステージも客席も楽屋もまずまずの広さと設備になっている。建物は古く18世紀後半のものだが、中身をリニューアルしてあるからこんな不思議な造りになったのだろう。客席の上の部分はアートギャラリーになっている。贅沢な空間の客席200の劇場だ。これがこの街の憩いの場所になっている感じだ。今日はチケットも「売り切れ」と聞いて、小さなホールでも満席は嬉しい。劇場の正面入口前の通りの上に手作りの横幕『Tokyo東京打撃団Dagekidan』というのがアート風にあり、こういう劇場の意気込みが無名のグループであってもお客さんの関心を惹いたのだろう。
7時半開場、8時開演。到着時間が遅かったので、開場時間ぎりぎりまでかかってやっと準備を終える。本番は思った通りノリのいいお客さんが多く、一曲目から盛り上がった。アンコール終了まで無事に終わる。力一杯の拍手と歓声が長く続いた。
さて、問題の搬出だ。本番で力を出しきった後、見上げるような坂は行く手を阻むかのように続く。階段を一歩一歩上がるのが疲れるので、もう僕はゆっくりゆっくりとしか動けなかった。それでもみんなは「あと一日だ」という新たなパワーを得てせっせと荷物をトラックに運び込んだ。11時、積み込みも終了だ。ホテルへ出発。

8月8日(火)  

こちらの天気はいまだに理解できない。まったく収まりがないのだ。夏なら夏らしく、というのは日本的な考え方のようで、ここイギリスでは、曇り時々晴、一時的に大雨または霧、というのが一日に何度か繰り返す。これが自然な夏の天気らしい。
今日の会場であるシドモスまでは近く、それも午後4時半まではフェスティバルの会場に入れないということなので、フォルモスの街で1時まで時間をつぶす。
海辺のリゾートだけど誰も泳いでなんかはいない。寒くて海水浴なんかできない。海で遊ぶのはボートとかヨットとかで遊ぶようだ。もう何でみんなこんなにゆったりと時間を過ごしているんだろう?過ごせるんだろう? と悔しくなってしまうくらい楽しそうな人々が、海で遊び疲れた体を持て余して散歩しているのに混ざって、その商店街を歩いた。
ここのチャイニーズは三軒とも夕方からしか開店しないので昼飯は、しかたなく名物を食べる。アップルパイの中身がジャガイモと挽き肉だと思えばいい。「名物に旨いものなし」と昔からいうが、ここの名物は腹の足しにはなった。

車で二時間半、シドモスの会場に着くが劇場への搬入するトラックが中に入れないというので、いろいろ手間取り、結局トラックの中身を見せてやっと、この荷物を人間の手だけで何百メートルも運ぶのは大変だと納得してもらい、会場内をトラックを動かすのは人と出店が多くて出来ないということだったが、みんなで交通整理をして劇場の横までトラックを移動できた。
このシドモス・フェスティバルは46年の歴史があって、ヨーロッパでもかなり有名らしい。8日間で120位のイベントがある。打撃団が出るのはその中の一つのコンサートで、このコンサートには6チームの出演団体があり、打撃団がトリで一時間の持ち時間があった。
ほんとにたくさんのイベントがあるんだけど、僕たちには他を見物する時間もなく、大慌てで搬入セッティング、サウンドチェックをしてもう開場。出番までの時間が少しだけフェスティバルの雰囲気を味わえた。出店の中に日本食の店もあって月桂冠の提灯と美酒爛漫の提灯が並んでいたが日本酒はない。僕は天ぷらご飯(天丼とは言えない)を食べる。旨くはないが一応米(日本の米ではなくタイ米か?)が喰えるので腹に押し込み、まだ腹が減っていたのでインディアンカレーも食べる。
アリーナシアターは舞台だけがテントの中で、客席は野外でかなり急な上り坂になっている。舞台に近い部分だけ椅子席でその他大部分は芝生の上に座る。雨が降らないことだけを祈っていた。9時過ぎ、やっと打撃団の出番になる。
今日は人が多い。4、5000人か?もう上から端までびっしりお客さんで芝生は埋まった。こうなると僕らも燃えないわけにはいかない。それに一ヶ月ツアーのラストコンサートで明日は日本に帰る、となればいくしかないでしょう!
持ち時間をだいぶオーバーするほど僕たちも力を振り絞り、お客さんも大いに湧いた。広い会場だけど客席の前は舞台に近く臨場感も満点、前に座ったお客さんの一挙手一挙動がはっきりと見えた。
10時20分終了! 終わった。

一ヶ月が!長い一ヶ月の旅だった。二度と思い出したくもないくらいに長かったが、やっと終わった。片づけ積み込みを終えてホテルへ。今日は大学の寮に泊まることになっていたが、誰もが忙しくて打ち上げのことを忘れていた。イギリスのバーは11時か11時半には店を閉じ、酒屋もガソリンスタンドのコンビニも11時で酒は販売禁止になって買えない。もちろん自販機なんてない。
一ヶ月のきついツアーの終了にビールの一杯も飲めないなんてどういうことだ、とちょっと昔の僕なら怒り心頭に違いないが、今はもう酒を止めているので怒りはない。が、若干の寂寞感は拭えない。日本はつくづく便利な国だと思う。ツアーが終わって良かった。ホッとしながら寮の部屋一杯に洗濯物を広げた。

8月9日(水)  

結局ほとんど昨日は寝る時間無く、朝の7時には寮を出発して、ヒースローを目指す。まずN通に11時、到着。最後のパッキング・荷造りをする。
このN通の倉庫に到着してトラックに荷物を積み込んだのが、昨日のことのようにも思えるし、ずいぶん昔のことのようにも思える。事故も病気もなくここに帰ってこられたのが、本当に良かった。みんな今日は安心の笑顔だった。ここで大半の荷物をN通に引き渡す。

予定よりかなり早く済んだので、ヒースロー空港で待ち時間がずいぶんとあった。引き渡した太鼓の残り200キロ分の太鼓と、200キロを越える個人荷物を一カ所に集めて、何も考えずに時を過ごしていると、同じように時間待ちをしているようなグループが目の前にいて、暇なので声をかけた。
小学生らしき15人と、世話人の大人たち数人とその家族。子どもたちは英語がわからないようで、その世話人の方が替わりに答えた。ベラルーシ(ロシアとポーランドに挟まれた国)のミンスクから、一ヶ月のホームステイに来ていて、今日の飛行機でミンスクに帰るという。肌が真っ白のその子どもたちは好奇心いっぱいの目を輝かせていた。
日本を知ってるか?日本人を知ってるか?と聞くと、すぐに「ジャッキーチェーン」と叫ぶ子がいる。ジャッキーチェーンは中国人だと言っても、なかなか判ってもらえない。しょうがないので「スモウ レスラーを知ってるか?」と聞いて、スモウを教えようとしたが、僕がスモウのポーズを取るだけでみんな逃げてしまう。それならもう指ズモウをやるしかないか・・。相手の親指をはさんで「イチ、ニー、サン」と数をかぞえる。これはだいぶ楽しめた。
そうこうしている間に、チェックインの時間がせまり、今回の旅をアレンジした事務所のM代表やら、最初のコンタクトを取ってくれ、前半のツアーマネェジャーもやり、疲れている僕たちをずっと励まし続けたKさんも空港に現れる。
後半のツアーマネェジャーをやったCさんから昨日全員にお土産に小さな石をもらっていたが、右手首にサポーターを巻いている僕に「きのう私がプレゼントした石を痛いところに当てておきなさい。とっても効き目があるから」とCさんは真顔で言う。こういうたぐいの人は日本だけでなく、世界中にいるのかと驚いたが、いや日本よりも外国の方が多いのかも、と思った。「OK、ありがとう」と取りあえず僕は答える。
他には、旅の後半、慣れないトラックの運転をしてくれた英国紳士のJ氏が優しく笑っている。パスポートチェックカウンターに向かうところで、そんな彼らと別れた。今度イギリスを訪れるのはいつのことだろうか・・・・。


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