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富田和明的個人通信

月刊・打組

2004年 6月号 No.95(7月1日 発行)

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陽光の海に輝く 南四国の地で

5月30日

 徳島県海部郡海南町、海部町、宍喰町が来年三月の合併で海陽町と名前が変わる。
 ここでの地域振興イベント『カイフ バンザイ』に、徳島新聞社からお声を掛けていただき、和太鼓★新紀撃コンビが参上した。
 一日、二回公演。午前の一回目は、ホールでの公演(海南太鼓所有の6尺大太鼓をお借りした)、二回目の午後は、大道芸風に珍しく野外で行う。
 台風が接近中という話だったのが、当日は海の色を写したかのような蒼空。眩しすぎる太陽の光を全身に浴びて叩きまくりました。

※ 『カイフ バンザイ』上写真、海南文化会館にて Photo 海南町役場/下写真、海南文化村中庭にて Photo K-Mari

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流れゆく汗と歳月

6月12〜13日

 新紀撃の大阪公演をやろう!と決めたのは、今年の幕が開けた一月末だった。そして二月の頭に、その劇場・トリイホールの下見に訪れた。
 ホールの資料を見ただけでは大きさの判断がつかなかったからだ。  何もない空間に舞台を組んで、そこで02約束公演が可能なのか、踊れるスペースがあるのか、大太鼓を置くことができるのか、が心配だった。この眼で確かめないとやはり最後の決断はできない。
 足を運んで、そして決めた。
 小さいながらもトリイホールは、大阪なんばの中心にあった。ここで一歩を踏める。その事も嬉しい事だった。

 この下見の時、僕はえらく久しぶりに一人で道頓堀界隈を歩いた。
 そこは人で沸き立つような賑わいではなく、二月だったからだろうか、閑散とし、どこか時代から取り残されたような風景に思えた。
 そして40年、20年前の事が昨日のことのように思い出された。

 淡路島で生まれ育った僕にとっての道頓堀は、幼少の頃にはめったに連れて行ってもらえない一等歓楽街だった。
 父親に連れられ緊張した面持ちで、食堂でうどんを啜っている少年の僕が、まだそこにいるような気がした。

 二十歳で鬼太鼓座に入った後、一年が過ぎ、太鼓旅の生活が始まった頃、今宮戎神社の祭り(十日戎)の仕事があった。
 正月過ぎの、大阪のえべっさんには、どえらい数の人が押し寄せる。
 道頓堀川の橋のたもとに造られた特設のヒノキ舞台で一日に数回太鼓を叩いた。それが何日か続く。
 僕はまだ一番の新人だった。秩父屋台囃子の締め太鼓を叩きながら、えべっさんの笹を持った溢れる人の頭越しに、パチンコ屋の呼び込みと映画宣伝の放送を何度も繰り返し聞いていた。

 鼓童に変わり、年末には恒例で近鉄劇場(この劇場も今はなくなったが)公演を行うようになった。
 鼓童を創立させた、ハンチョウこと河内敏夫と最後に別れたのもここだ。
 18年前の12月公演、千秋楽。
 長かった一年の公演ツアーの打ち納め。その日劇場にお集まりのお客さまみんなと手締めをやったその音が、まだ耳に残っている。
 公演打ち上げ忘年会の後、全員解散、正月休みとなった。
「僕は明日ソウルで打ち合わせだから」と、ハンチョウはご満悦の笑顔だった。
 その翌日、初めてのワープロを買って僕は淡路に帰る。

 道頓堀を歩いているのは、いつも師走か正月のイメージが強い。
 その日の二月は暖かかった。
 道頓堀川の橋の真ん中でふと足を止めてみる。手すりにもたれて川を眺めると、遠い昔に眺めた同じ街並みが映っているように思えた。
 あれからずいぶんと年月が流れ、自分は何をしてきたのだろうかと一瞬振り返った。
 その二月から瞬く間に、立ち止まる事が許されないかのように、また時は過ぎて行く。気が付けば六月の公演本番日を迎えていた。

 

 六月に咲くあじさいの花は  その頬を濡らし 静かに雨に打たれています
 降り続く空からの涙は あなたの心を やさしく 包みこみます
 雨が止み 雲が流れ 青い空が再びよみがえる
 そんな時 そっと 空に向かって 深呼吸をしてみて下さい  夏の太陽の匂いと 燃える予感が  あなたの胸を おおうことでしょう

 道頓堀川に揺れる街の灯り  法善寺横丁をくぐり抜ける風  耳に届く行き交う人々の声が
 懐かしい記憶を呼び戻してくれます
 過去から未来へ 未来から過去へ
 今日の公演が あなたにとって 忘れられない想い出と なりますように

 

 流れる汗が止まらなかった。
 客席前の皆さまには申し訳ないと思いながらビチョビチョでした。歩く度、振り向く度、立ち止まる度、下を向く度、流れ落ち、上を向けば目に流れ込み、汗が口に入ればツバキと一緒になって飛び跳ねていました。
 スミマセンでしたね。かぶりつきのお客様には大変ご迷惑をお掛けいたしました。
 公演前半部分は特にまったく二人が汗を拭く間もなく、どんどん舞台が進行していきますので、自分たちではどうしようもありません。次回公演には、前列のお客様はタオルかハンカチ〜フのご準備をお願いいたします。
 空調の風も体に感じていながら、汗が異常にしたたり落ちていきました。これほど落ちてしまったのは、やはり太りすぎだからでしょうか‥‥。
 狭い空間のステージはプロレスのリングみたいなものです。

  一日目、大阪の皆さんにどんな風に受け止めてもらえるのやらと、期待と不安が一杯でした。
 東京ではオープニングのダンスの始まりと共に、(馴染みのお客さまが多いので)手拍子と掛け声が掛かりますが、大阪は試されている感じで、静かでした。 いきなりダンスですからね。
 もうずっとビックリされているような感じでした。ま、それが素直な感想だったのだと思います。
 二日目、私、なぜか本番前にフラフラなってました。その日、朝からご飯を食べていなかったのを思い出してしまった。
 それでもいけるかと思いきや、足がからみ最初のシーンから足がもつれ、その後は必死になってしまい、力の抜き加減を見失いそうになりました。
 もう立っているのがやっとの後半戦でしたが、客席を見渡せば倒れるわけにはいきません。
 僕が大阪で舞台に立つのは、実に鼓童時代以来ですから、親戚一同も駆けつけ(皆ジジババに変身し)ており、鼓童時代のファンの方も驚くなかれいらっしゃり(まだ覚えておいてくれた!ありがたや)、高校の同級生も現れ(名前を言われなければ見ただけでは判らなかった)、またかなりの遠方よりもお越し頂いておりました(無事帰れましたか?)。
 そんなこんなでたった二日間が終わり、しばし倒れていました。熊谷修宏は元気ハツラツな様子でした。若い!

と感傷に浸る間もなく容赦なく、舞台は終わってしまった。
 たくさんの皆さまに支えられての大阪公演。本当に感謝しております。ありがとうございました!
 またいつの日にか道頓堀川の橋の上で足を留めたいと思います。飛び込みはしません。

※ リハーサル中 大阪千日前・トリイホールにて Photo K-Mika(上写真も)

 

 


インターネット版 『月刊・打組』 2004年6月号 No.95

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