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富田和明的個人通信

月刊・打組

2004年 夏号 No.96(8月23日 発行)

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ウズウズ渦打ちの法則

小倉祇園祭は太鼓の祭り

7月15〜18日

 板東妻三郎主演・映画『無法松の一生』を、小さい頃にテレビで見た記憶がある。三船敏郎主演版はずっと後で見た。
 当時はまだ幼かったので、この映画と小倉祇園太鼓は結びついていない。はっきりと意識して小倉を知ったは、佐渡にあった鬼太鼓座に入ってからだ。

 食堂に映画の白黒写真パネルが飾られていた。
 鬼太鼓座創始者・田耕(でん たがやす)氏お気に入りの一枚だったからだ。
 デンさんは、「この映画が自分の太鼓芸能に興味を持った原点である」と語っており、この『無法松の一生』がなければ鬼太鼓座は創られなかったかもしれず、そうなると太鼓打ちとしての僕の存在もなかったかもしれない。
 そういう大変重要な意味を持つきっかけとなった太鼓だが、鬼太鼓座の舞台に取り上げられたことはなかった(と僕の記憶)。
 映画の中の小倉祇園太鼓はまったくの創作太鼓で、現地の祇園太鼓とは違う、という事も後で知った。
 鬼太鼓座時代も祭りの記録フィルムは見たように思うが、実際に目の当たりにしたのは鼓童になって、各地の芸能を取材していた一環で、藤本吉利さんが現地に教わりに訪ねてからだ。吉利さんが佐渡に帰って僕たちに伝えた。
 これが僕の小倉祇園との最初の出会いになる。二十数年前の話だ。

 横打ちで軽やかに踊る太鼓はこれまでに見たことがなく、当時の鼓童の舞台にも上げられなかった(僕が退座後、松崎達朗によって若干はあったらしいが)。
 僕が中国留学から帰って、これから本格的に太鼓の世界に復帰したいと願っていた時、炎太鼓のモンゴル公演の助っ人として声を掛けていただき、ウランバートルの劇場でも小倉祇園の真似事を叩いた。今思えば、なぜこの太鼓を演目の一つにアレンジしたのか不思議でならない。
 渋谷ジァンジァンで『富田和明参上〜太鼓物語』という会を始めた時、三宅島の太鼓の発祥から京都祇園祭に興味が伸び、小倉祇園についても調べた。
 そして昨年の七月、僕の25周年記念公演で、吉利さんと積年の想いを込め小倉祇園太鼓を取り上げ、創作したのが御蔵祇園太鼓だった。
 これだけ小倉祇園太鼓と付き合っていても、現地の祭りは一度も見ていなかった。自分のワークショップ『伝統太鼓塾』でも本格的に取り上げるようになったことから、今年はぜひ行こうと決めた。

 こうして今年の僕の夏は、小倉から始まった。
 七月の第三土曜日をはさむ三日間が現在の祭り日となっていて、僕はその前日・15日(木)夜から小倉に入った。  街の辻々に太鼓が出されて、待ちきれない人々が叩きまくっているのかと思ったからだ。
 福岡空港からバスで約90分走る。
 夜の九時を過ぎた小倉の街では確かに太鼓台が出され、そこに人々が集まり太鼓が叩かれていた。
 町一番の飲屋街では、太鼓チームが門付けでもするように、スナックやお店を太鼓担いで廻っていた。広場では、据え置きの太鼓を何台も並べて叩いていた。
 でも僕のイメージしていたものより、ずっと大人しい太鼓で、目にしたものの何かノドにはさまってスッと落ちていかないもどかしさがあった。
 翌日の金曜は朝から祭りの準備が始まっていたが、太鼓の音はまだ聞こえない。
 僕はまず小倉城と八坂神社にお参りをしようと思い向かうと、お城を見てガックリした。
 正確にはお城ではなく、そのお城の背景にそびえ立つビル群にだ。
 今までも全国各地のお城、或いは城跡を見てきたが、立派な天守閣を持ちながら、これほどまでにお城の景観を無視した建造物を見たことがない。
「小倉祇園ばやし」を作詞した阿南哲朗氏も泣いているのではなかろうか?

小倉名物 太鼓の祇園
太鼓打ち出せ 元気出せ
あ やっさやれやれやれ〜

小倉祇園さんは お城の中よ
赤い屋根から 太鼓がひびく
あ やっさやれやれやれ〜

「小倉祇園ばやし」より

 よそ者には関係のない話なのだろうが、どうしてこんな巨大な建物がお城のすぐ横にその建築を許されたのか?
 お城の存在、お祭りの存在に対する市民の感情がここに現れているのか? 行政の取り組みの姿勢か? と旅人の目には写る。
 夕方までには時間がある。市の中央図書館で、お祭りについて調べようと思ったら、ここでも資料があまりにも少ない事に驚く。刊行物の数が三点しかない。
 この状況をどう受け止めていいのか戸惑った。訪ねる場所が違ったのか‥‥。

 そして夕方から始まった祭りでは、提灯に灯がともり、打ち鳴らされた太鼓とジャンガラは山車と一緒に街を練り歩き、また据え置き太鼓は激しく燃えた。
 音を聞いて、叩く姿を見て、やっと安心した。僕の心配は杞憂に終わった。
 小倉の人々は本当に太鼓が好きである。馬鹿の二文字が付くくらいの好き者がこんなにいるんだと、嬉しくなる。

 リズムは僕の知っている小倉祇園より、まだかなりテンポが速かった。
 ゆっくりテンポ、テンポアップ、に加えてのハイスピード、この三段階ギアチェンジがあって下打ち(ドロ)のリズムが波打っている。
 年輩の方に尋ねると「こんなにテンポが速くなってきたのは、ここ十年くらいの事」らしい。
 十年前はもっとゆっくりで、その十年前はもっともっとゆっくりなリズムが主流だったのではないかと思う。
 時代に合わせて、伝統太鼓も変わってゆく。
 今の小倉祇園は山車で叩かれる太鼓と、据え置きで叩かれる太鼓に大きく分けられる。山車は動くので、打ち手も動きながら叩く。据え置きは太鼓は動かないが、打ち手が動く。同じ据え置き横打ちスタイルでも、八丈や三宅とまったく異なる点だ。
 太鼓の横打ちスタイルを保ちながらどんなことでもやってしまおう、試してみようというチャレンジ精神が小倉にはある。
 昔ながらのスタイルも継承しながら、新しくどんどん変化を受け入れている、そんな気がした。
 映画『無法松の一生』で創作された太鼓(大きい山車を造り、大太鼓を載せ山車の上でこれを叩く)にも近づいているようなグループの姿もあるし、太鼓の台数を増やし揃い打ちしながらその周りで踊るグループなど様々。

 夜の九時から十一時にかけて駅前のいくつかの広場では、たくさんのチームが競うように叩き、酔い、太鼓を楽しんでいる。これは必見だが、見物人や観光客も巻き込んだお祭りになるともっと盛り上がると思う。
 こんなに手足を激しく動かし打ちまくる太鼓打ちの数を競えば、日本一ではなかろうか。
 激しさ故に打ち手が次々と入れ替わる、それが渦となり踊っている。
 これ程までに楽しそうな打ち姿を見せつけられては、自分の腕もウズウズして来てたまらん。後は自分でも叩くしかこのウズウズ解消の術はない。
 誰かオレにバチを貸してくれ! 

 

※小倉祇園太鼓の歴史については、『たいころじい』第13巻 柏木實(かしわぎ みのる)著「小倉祇園太鼓」が非常に分かりやすい

駅前で見つけた、お気に入りの一人

※JR小倉 駅前商店街入口に山車が並び、太鼓を打ちまくる/ Photo T-Kazuaki

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彷徨う旅人 吟遊絵馬

7月31日

 この日の暑さも格別だった。
 コンクリートジャングルの東京で正午過ぎ、立っているだけでも汗が止まらない。
 そんな中、新宿駅南口から劇場まで歩いて7分程度の距離を、えまさんは荷物と楽器を抱えたまま迷った。
 その間に何度も電話が掛かってきて、いっそのこと「すぐ迎えに行きますからそこを動かないで」と言いたかったが、「ああ大丈夫です。もう少し歩いてみますから」と大らかな声が聞こえた。最後はタクシーに乗っても迷い、界隈を50分ほども彷徨し、到着した。
 えまさんは、リハーサルの時もまだ漂っている。
 この時間をも空間をも越えて、何処ででも旅人になっているようだ。そして本番に鮮やかに集中する。

 えまさんとの、初めての『二胡と和太鼓のコンサート』は、即興トークライブだった。
 えまさんは、どこでどう来るのか予想がつかない面白さだ。
 楽器というものにさえとらわれていない気がする。極端に言えば、二胡を演奏しているというより、えまを演奏している、そう言えるのではないだろうか。

 またもう一度、あの人と舞台の上で旅をしてみたい。歩き慣れた道でさえ、これまで見えなかった、どんな謎と喜びと安らぎと夢とが隠されているかもしれないから。

※ プーク人形劇場にて えまさん(右)と富田(左) Photo/O-Naoko

 


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