インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

2005年 新年号 No.99(2月27日 発行)


あれから十年。

〜打組・拾周年〜

2月25日

 中国から帰国して何をしていいか分からないままとりあえず続いていたバイト生活、裸一貫手探りの状況からもう一度太鼓の世界に足を踏み入れようと心を決めたあの時。
 太鼓を一鼓ずつ買い足し、それを運搬する車を買い、東京打撃団の旗揚げに参加して、その後の七年弱を打撃団で過ごし、また個に戻った。
 太鼓で生きていく。
と決めてしまえば、何とかやっていける。
が、その決める為に時間が必要だった。

 佐渡國鬼太鼓座に入った二十歳の時も、鼓童になった二十四歳の時も、これで一生食べていこうなどとは考えていなかった。
 そんなことは出来ないだろうけれど、毎日一日一日を精一杯過ごすことで太鼓に喰らい付いていた。
 鼓童で三十歳を過ぎた頃「このままでいいのか」と思い始めた。太鼓との生活が蜜月過ぎたせい、と振り返った今は思う。
 その後しばらく太鼓とは距離を置いた生活を経て、また自らの意思で太鼓ににじり寄ってきた。それが十年前だった。

 もう迷わない。
 迷えない。迷ってどうする?迷って可愛い歳でもなくなったし。
 このまま太鼓に寄り添ったまま、棺桶に入るまで叩いていたい。いや、喰うために叩く。好きだから叩く。もう離れられない。
「好きだ。いつまでも一緒にいて」と耳元で熱く囁く。
 人間相手だと、そうはとんやのおろし大根だけど、太鼓相手だと、とりあえずは「ドン」と受け止めてくれる。ありがたい。

 

「美仕草(かいしくさ)や 打組(うつぐ)みどぅ 勝(まさ)りょうよ」
 沖縄県竹富島に五百年程前から伝わるというこの言葉の中から「打組」を選ばせて頂き、富田自設応援団の名前にした1995年1月(後に読み方を「うちぐみ」に変える)から、十年。
 拾周年の節目に、竹富島の上勢頭 芳徳(うえしぇど よしのり)さん『喜宝院蒐集館(きほういん しゅうしゅうかん)』館長に、再びお電話で改めてお話を伺った。
「どんなに美しい仕草も(賢いことも)打組の精神(助け合う、力を合わせる)には勝てない。」それほど『うつぐみ』は大切なことと、ますます島では深く広く語り継がれていますよ」
 僕が竹富で上勢頭さんから初めてこのお話を伺ったのは、今から19年前(1986年)の2月12日。この詞(ことば)と出会ってから今年で十九年になる。

 これから十年後は、どうなっているのか?
 そんなことは分からない。ただ決めている事は、これからも太鼓と一緒、ということだけだ。

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上勢頭芳徳の島のお話は、こちら


障害から「笑街」へ

和太鼓セミナー障碍者と共に

1月23日 + 2月6日

 太鼓アイランドの会員でもあるTさんから頂いたメールに、見慣れない文字があった。
「障碍」
 一瞬何の事かと止まる。
「知的障碍児・者が個々に参加できる太鼓教室を探しています」 とその後にあり、これで読めた。
「しょうがい」。一文字では「しょうげ」とも読む。
 確かに「害」より「碍・礙(さまたげる、じゃまをする、という意味)」を使った方がいいのかもしれない。

 何年か前、僕が障害者の文字を使った時、「この子たちをそんな風に呼ばないで」とお叱りを頂いた事を思い出す。
 じゃ、どう呼べばいいですか?と聞くと「この子たちも、同じ人間なんです。なにも必要ありません」と言われた。
 確かにそうですが、社会ですでに使われている言葉なんですから‥‥と答えると、その方は僕の前から消えていった。 何となく後味は悪かった。

「ねぇねぇ、ここの部屋の温度調節はどうするの?」「歳はいくつ?」
 ワークショップの会場に現れたとたん、ずっと質問して何かを触りまくっていないと気が済まないKくん。
 一言も言葉を発しないで、じっと隅に正座したまま動かないSくん。
「はいこれ名札よ、ちゃんと胸に付けてね」「これはバチだから、なくさないでね」と参加の一人一人に手渡す世話焼き女房タイプのHさん。
 ず〜とどこか分からない方向を見てはまたこちらを見つめ首を傾げるTさん。
 ただ嬉しそうに笑ったままのNさん。
「キツツキ、キツツキ、キツツキキキキ」ずっと大声で叫び、ジャンプし続けることを止めないMくん。
 気持ちが真っ直ぐな人たちの前では、こちらが身構えると何にもならない。 まずは、僕が太鼓を叩いてみる。

 去年の夏と今年の冬の二度にわたり、障碍を持つ方、持たない方の為の太鼓セミナーを行った。
 実際には「サマー・アート・スクール」「アーティスト・コミュニティー・プログラム」という立派な名前が付けられており、主催者(クリエイティブ・アート実行委員会)の名付けの思案もうかがえる。
 午前中は、一般対象者のみで、午後が障碍者と一緒に叩く。
 主催者から「これまでの富田さんの経験から、普段、障碍児教育に携わっている方に、こんな風に接していけばいいんですよ、太鼓をこんな風に取り入れればいいんですよ、ということを教えて欲しい。またその提案をして欲しい」と言われた。
 う〜ん、それほど豊富に経験があるわけではないし、たぶん毎日子供たちと接している先生方の方が、分かって知っているのではないかと思いながら、それでもそれを理由に断りたくはなかった。
 親も先生方も毎日毎時模索しながら生活しているのだろうと想像する。その時間に僅かながら参加させていただく気持ちで引き受ける。
 講座を始めるにあたって主催者からプログラムや内容の資料を欲しいと言われていたので一応は用意をした。が、  それはあまり役に立たなかったと思う。指導するというよりも、一緒に裸になって過ごすことだろうか‥‥。
 彼らと顔を会わせたとたん、一気に僕のテンションも上がった。でも落ち着いて落ち着いてと自分に言い聞かせる。

「さあ、今度は自分の名前を太鼓でたたくよ」。
 名前を口から声にして出した後、それを太鼓の音にする。
 世話焼き女房のHさんが、真っ先に大太鼓の前に立ち、正座をしたまま動かなかったSくんが、それを聞いて急に立ち上がり太鼓に向かって歩き出し、表情のなかったTさんも手を引かれて太鼓の前に来ると、自分の名前を叩いた。
 物に触っていないと気が済まないKくんには、始まりと休憩と終わりに合図の拍子木を叩いてもらい、大声で叫びジャンプするMくんはバチを握って太鼓を叩く時だけそれが止まるので、僕とセッションをし、Nさんはずっと笑ったままだ。
 僕にとっても冒険の旅をしているような時間が流れていた。 

 

※ 文中のイニシャルは、ご本人の名前と関係ありません

クリエイティブ・アート実行委員会事務局・ミューズ・カンパニー


越路に太鼓の響き再び

中越大地震の後で

2月19〜20日

 二年半か三年振り?に新潟県越路町(こしじまち)に足を踏み入れた。

 19年振りの大雪と聞いて、僕は下にタイツとジャージ、その上からもう一枚の重装備(下半身が冷え性なもので)。靴下の下にもホッカイロ。もちろん腰にも大きいのが一つ。
 土曜日の朝には横浜でも少々雪が積もったので、自宅から長靴を履いて行ったが、新潟に向かう新幹線の中で誰も長靴は履いていなかった。
 懐かしの来迎寺(らいこうじ)駅に降り立ち、外に出てみれば積雪は一メートルほどでそれほどでもない(東京でこの積雪なら大変なことだが)。聞けば今は峠を越したのだという。

 この越路町には「こしじ巴(ともえ)太鼓」という女性ばかりの太鼓グループがある(男性会員も数名いるが、女性が中心)。
 このグループ誕生から三年間、僕は指導をさせていただいた経緯がある。
 昨年の夏・アメリカの独立記念日にサイパン公演も行ったそうだ。
 その後の10月23日、中越大地震が来た。

 災い中の幸いにしてこの町で犠牲者はでなかったが、被害は大きい。
 太鼓世話人のKさん(役場勤務)も一ヶ月間家に帰れず、町の復旧活動にすべての力を注いだ。
 いつも太鼓練習場として使用している体育館が震災避難所となり、もちろん太鼓の活動・練習もそれからは、すべてが中止。
 やっと仮設住宅が完成し、避難所も解散。元の体育館に戻った。地震後の太鼓初練習は、今年の1月19日だったそうだ。
 練習再開の知らせを頂き、また「一度来て貰えませんか?」と声を掛けていただいた。嬉しい知らせだった。

 

 冷蔵庫のようになっている体育館のドアを開ければ、この寒いのに皆さんジャージ姿で満面の笑顔。僕も気合いが入いる。でも寒かった。
 こういう施設で今は暖房設備があるのが普通の環境だろうだけど、ここは昔ながらの環境。今でもまったくの自然天然状態。
 ここでずっと練習しているんだから、みんな辛抱強く粘り強くなるのは当たり前だろう。
「今日はそんなに寒くないですから」と皆さんはニコニコ顔。
「覚悟して来ましたけど、それほどでもないですよね〜」と、僕も軽く答える。ホッカイロ三枚を体に張り付けて言う言葉じゃないけど‥‥。
 土日の二日間、午後三、四時間、久しぶりに指導をさせていただいた。
 せっかく呼んでいただいたのだから、皆さんの力にも記念にもなるようにと曲『10・23(仮題)』を作った(まだ未完成だけど)。

 色んな試練を乗り越えながら、人も組織も強くなっていくんだろうと思う。
 四月からここ越路町は、長岡市に合併となるが、町名が消えても「こしじ巴太鼓」の名前はそのままだ。
 頑張る人々の姿を見て、励まし励まされる。また太鼓を叩くことで自分が励まされ、そしてその音を聞く人々の励ます力になれることを祈る。

 二日目の稽古が終わって、外はまた大雪となる。長靴が役に立った。
「明日の朝はまた雪かきだわ〜」と、うんざり顔のみんなには申し訳ないけれど、一面の銀世界に訪れる夕暮れ時は美しい。
 降りしきる雪に見とれながら、僕は越路道を後にした。

久しぶりの稽古の後で

※JR長岡駅で必ず食べる。ここもシマダヤの冷凍麺だが、乱切り藪ソバとはちょっと違う

乱切りの方が味は上だが、懐かしかった


インターネット版 『月刊・打組』 2005年新年号 No.99

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